混沌に沈む
一日目
翌日、何事も無かったかのように撮影は再開された。セシルが撮影所に入った時に幾人かのスタッフから体調を心配されたが、セシルは微笑を顔に貼り付けて言及を逃れた。体調なら昨日より明らかに悪化している。全身に残る鈍痛、頭痛、吐き気、嫌悪感、怠さ。それら全てを抑え込んでセシルは必死に平常時の自分を再現していた。昨日のことについて今だけは何も思い出したくなかった。
だが、男が何ら変わりなくプロデューサーとしてセシルの前に現れた時、そんな意志は瞬く間に踏み躙られた。
「おはようございます」
何気ない挨拶でも自身の声が震える。男は普段通りにセシルの肩を抱き、おはようと喚いていた。その声が耳元で響くだけで吐き気がする。視界が歪むことが抑えられなかった。
「終わったら迎えに行く。逃げたら、分かってるな?」
セシルが無言で頷いたのを見て漸く男はセシルから離れた。去って行く背を見ながらセシルは呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
「愛島さん。大丈夫ですか? やっぱり顔色が悪いようですが」
「いえ。……本当に大丈夫です。あと少しでスタジオに入ります」
スタッフの呼び掛けに答えながらセシルは手洗いに駆け込んだ。個室に鍵を掛けた瞬間、耐えきれずにその場で嘔吐する。胃には殆ど何も残っていなかったのか、胃液だけが便器に零れた。その色が灰色ではなくて良かったと、セシルは他人事のように考えていた。昨日の痕跡をこれ以上目にしたくなかった。
流石にそれ以上男がセシルに近寄ることもなかったので、皮肉にも撮影は順調に終わった。
周囲に挨拶を終えてセットから出るセシルの前には、男が佇んでいた。セシルだけに見えるように差し出された携帯には、SNSに投稿するばかりになっている動画ファイルが映っている。セシルはそれをなるべく視界に入れないようにして男の車まで歩いて行った。
病院に着くと既に医者が待っていた。昨日と同じベッドにはシーツを取り替えた程度では収まらない異臭が残っている。男達が談笑する中でセシルの表情は暗かった。
「いつまでふてくされてんだ。もうやることは分かってるだろ」
「……はい」
セシルはコートに手をかけた。男がそれを半笑いで眺めてくるのも気色が悪いが、脱いだコートを医者がいそいそとハンガーに掛けることもセシルの精神を逆撫でする。この期に及んで中途半端に人間扱いをされる方が不気味だった。
ストールを外してセーターを脱ぎ、下着ごとシャツを脱ぎ捨てる。鍛えられた線が露わになると、不躾な視線が投げつけられた。全体の印象はしなやかに見えるが、広い肩幅に厚い胸板、割れた腹筋から脆弱ではない根幹が垣間見える。弛み、脂肪を蓄えた男達とは比べるまでもない肉体だった。
「当たり前だけど格好いいねぇ。セシル君って着痩せするタイプなんだ」
医者が手を叩くのを見てセシルは眉間に皺を寄せる。靴下を脱ぎ、ベルトを引き抜いた。
一瞬だけ躊躇した後、自らの手でスラックスを足首まで引き下ろす。そうしてベッドまで歩み寄ると、医者はやや興奮気味にセシルの腕を取った。
「近くで見ても格好いいね。女の子がこの場にいたらきっとキャーキャー言ってたよ。じゃああと一枚も脱いじゃおうか。邪魔だし」
「…………っ」
「あ、分かった! 脱がされたかったんでしょう」
「違う! 違います、離して!」
下着の隙間に入る医者の手をセシルは慌てて払い除けた。
「昨日は着せて貰って、今日は脱がせて貰うって、こんなに格好いいのに本当は尽くされたいお姫様願望でもあるのかい?」
「そんなことはありません!」
「おい、イチャつくのもいい加減にしろ」
男が苛ついた様子で煙草に火を点けていると、医者は不服そうに頭を掻いた。男は煙を揺らしたままセシルを冷たい目で眺める。
「お前もだ。これ以上安い時間稼ぎしたら分かってるな」
セシルは渋々頷くと、下着を脱いだ。男達はまだ服を着たままであるのに、一糸纏わぬ状態になっている自身が惨めだった。隣では医者が何かの容器を開けているのが見える。
ローションの類いには見えなかった。そうなると医者が手にしているものは何か想像するのは難しいことではない。
「あの」
「どうしたの?」
「……言うことはちゃんと聞きます。絶対に逆らいません」
「知ってるよ。で?」
「ですから薬は使わないでくださ、い゛っ⁉」
セシルが言い終わるより早く、男はセシルをベッドに突き飛ばした。後頭部を壁に打ち付けたセシルは頭を抑えて小さく唸る。
「俺達に指図出来るなんていい御身分だな。さっきからいい気になりやがって」
「落ち着きなよ。セシル君だってまだ怖いんだ。優しくしなくちゃ」
男が続けて拳を振り上げるのを、医者は間に入って止めた。倒れているセシルに目線を合わせるように身をかがめると、男は蓋の開いた軟膏を手渡した。
「今日のところは僕達が薬使うのはやめてあげるよ。それならセシル君が自分でやってね」
「……これは?」
「全身によ~く塗り込んで。ちょっと感覚が変わるだけだから怖くないよ。下着が着れなくなった人もいるみたいだけど、そういうのは宣伝文句だって僕は思っているから」
医者の口振りで何を渡されたのかセシルは理解した。これ以上抵抗しても意味が無いことも同時に分かってしまった。露骨に此方を見下すプロデューサーの男と、寄り添うように見せて欲望を叶えることしか頭にない医者。この場に交渉に応じようとする人間はいない。
今にも手が震えそうになるのを堪えて、セシルは軟膏を手に取った。
少し冷えているそれをゆっくりと左腕に広げていく。全身に、と言われたのだから明らかに性感帯ではない場所に塗っても問題はないとセシルは判断した。それは間違っていなかったようで、男達はセシルの様子を澱んだ目で眺めているだけだ。セシルはそのまま右腕、肩、首筋、脇と軟膏を手ですくっては広げていく。褐色の膚に白い軟膏が浸食していく様はそれだけで淫靡だった。
「……っ…………」
最初の異変は熱さだった。服を脱いだ時は肌寒さを感じるほどだったというのに、全身に汗が噴き出し体温が上がっていくのを感じる。汗と軟膏が混じり合い、蛍光灯を反射して厭らしく光った。医者が生唾を呑む音が静まりかえった診察室に響く。
「はっ……ん」
体勢を変えようと腕を下ろした時、滑った膚が触れ合い、その感触にセシルは小さく声をあげた。思わず口元を押さえると、薬品独特の臭いが鼻腔を突く。今まで薬を塗り込んでいたのは性感帯と言うには程遠い場所だ。それなのにセシルを襲ったのは間違いなく快楽だった。
腕を下ろすと脇の皮膚が擦れ、身を竦めると首筋が擽られる。それらは日常動作の延長線でしかないのに、それに伴う感覚は全く別物に変わり果てていた。
「手が止まっているよ。自分でするの嫌になっちゃった?」
医者に声をかけられて、セシルは我に返った。医者は劣情を隠そうともしないで、セシルを見ていた。
「なんなら僕が手伝ってあげようか。見ているだけじゃ退屈だからさ」
「いいえ。自分でします」
それはそれで厭らしいね、と笑った声は明らかに嘲りを含んでいた。男達は手の内にある小動物を弄ぶような、絶対的優位に立つ愉悦を味わっている。セシルが如何にそれを苦々しく思おうと、寧ろそう思うほど、その悦びは深まった。
腹から脇腹、胸へと行き着く頃には既に無視できないほど全身が熱く感じられた。特に下半身はまだ触れてもいないというのに熱が集まっている。現実を直視するのを避けようとセシルは目を閉じるが、それはより他の感覚へと神経を集中させ、男達の忍び笑いやとろとろと先走りが伝う流れに深く感じ入る結果しか招かなかった。
「う……くっ……ん……っ」
胸板へ粗雑に軟膏を広げていくと、指の動きに合わせて肉が柔らかく形を変える。その様を見ているだけでも膚の張りや筋肉の強い弾力を感じられた。
背中にも手が届く範囲で軟膏を広げると、セシルは脚を曲げ、ふくらはぎや太股へも塗り込み続ける。毛の剃られている膚は薬をよく吸収していった。足先へも塗ろうと身をかがめると、既に完全に勃ち上がっている己の雄の臭いが強く感じられる。自身の肉体の浅ましさを突き付けられたようで、セシルはより強く目を閉じた。
「……終わりました」
足の裏まで塗り広げたところで、セシルは男達を呼んだ。
「いや~長かったね。頑張ったね、セシル君。結構即効性がある薬だけあるね。ちゃんと効果も出てるみたいだし良かったよ」
「それで、だ。セシル君」
今まで黙ってセシルを眺めていた男は医者を押し退けて立ち上がると、セシルの隣に座り込んだ。まるで労うかのようにセシルの頭から、首、背中、腰と手を滑らせていく。愛撫にもならない、ただ触れているだけの手付きで、セシルは歯を食いしばって声を抑えている。頑なな態度ごと弄ぶように、男はセシルの頬に手を添えて半ば強引に自身の方を向かせた。
「なぁ。さっき怒られたことも覚えてないのか? こんな出来で終わりだなんて。あまり俺達を馬鹿にしない方がいい」
「ですが……っ、ワタシは、んっ、ちゃんと塗りまし、た」
反論しようと口を開けば、男の指の動きに合わせて声が揺れる。薬が回り始めたのか、ぶれつつある目の焦点を必死に合わせて対峙しようとするセシルへ、男は失笑にも似た笑みを浮かべた。薄いビニール製の手袋を付けると、男は粗雑に軟膏を手に取る。
「まだだろう、ここは」
「あ゛ぁあああっ!」
扱くように陰茎へと軟膏を塗り込まれて声を耐える余裕など無かった。咄嗟に腕を押し退けようとするセシルへと男はのし掛かり、そのままベッドに押し倒す。男の躰とベッドで全身の皮膚が擦れた。思わず四肢を暴れさせようとした所で男はセシルの陰茎を鷲掴んだ。
「ひ、……い゛っ!」
激痛と快感は紙一重だった。弱点を手の内に収められる恐怖でセシルは身を固くする。
溢れる先走りと軟膏の滑りを利用して、更に手の動きは激しさを増していく。
「いや゛っ、ああああぁあ゛! やめろっ、……ん゛、ひっぎいい゛い♡ くるし、あっあ゛ああぁあ!」 耐える余裕も無く精液が迸る。褐色の膚に散った白濁は快楽に敗北した証だ。男は喉を鳴らして笑うと、絶頂直後の粘膜へ更に薬を擦り付けた。
「ゔわぁああ゛あぁあっ! いだっ、い゛♡ はぁ……や゛あぁっ! い、まはやめっん゛んっあぁあ!」
「散々舐めた真似しやがって、一回イった程度で許す訳ねえだろ。ちょっと擦っただけでもザーメン吐き散らす早漏にしてやるからな」
最早悲鳴をあげることしか許されないセシルに覆い被さり、男は絶対的な優位に立つ興奮を享受していた。セシルは両手で口元を覆い、せめて声を抑えようと試みた。今更そのようなことをしても無意味だが、快楽の濁流の中でも僅かに残ったセシルの自尊心がそうさせていた。
「ああ、ダメだよ。顔が見えなくなる」
だがそんな抵抗はあっさりと取り上げられる程度のものでしかない。傍らで腰を下ろしていた筈の医者がセシルの両手を払い除けた。医者はセシルの頬に手を添えて首の角度を変えた。
紅潮し、汗や涙で汚れた美しい顔が文字通り手の内にある不可思議さに彼は酔いしれた。
苦痛に近い快楽に呑み込まれ、追い詰められ、傷付いているその表情は、収集したピンナップに載っていたどんな表情よりも素晴らしく見えていた。
「自分では気付いてないみたいだけど、そこ以外にも塗り残しあるからね」
「ああぁっ♡ もう、や゛ぁ! あたまが、おかし……っ!」
医者がセシルの耳元に軟膏を塗り込むと、躰は弾かれたかのように震えた。医者はわざとぐちゅぐちゅと音を立てて塗り込み続ける。その度にまるで脳ごと掻き回されてるかのようにセシルは感じていた。それは彼自身が持っていた音への敏感さも作用しており、それは薬でより強さを増していた。
男達はセシルが絶頂に至る度に過剰なほど笑った。それは純粋な楽しみでもあり、性という概念をセシル自身から取り上げる為の儀式でもあった。本能的な快楽に身を任せる度に嘲られ貶められることは、セシルを深く追い詰めた。これは男達の常套手段だった。嫌悪感を抱かせ、それでも強制することで相手を支配する。その過程もまたこの遊びの楽しいところだった。
痛みと快楽の境はあやふやに融け、男達の笑い声と軟膏を塗りたくる音ばかりがセシルの脳裏に響く。過敏になっていく躰を恐れて身を捩る行為すら快楽を伴う。
「や……め゛……ぇ…………」
声が掠れていると自覚した頃、男達はセシルを俯せにした。だがもう暴れて抵抗する体力は残されていなかった。腰だけを上げ、手足をベッドに投げ出した無様な体勢にも、白んだ意識は何かを思うこともない。医者は笑いながらセシルの陰茎を弄り回していた。男はセシルの尻を割り開くと、孔へもベタベタと薬を塗りつける。
昨日酷使されたからか、固まった血が所々付いていたが、男は特に気にも留めなかった。
既に勃起した自身の陰茎に男はコンドームを嵌めると、孔へと宛がう。軟膏の滑りを利用してそのまま勢いよく挿入した。
「うあ゛あっ!」
セシルの痛苦に満ちた悲鳴を無視して男は自身の快楽だけを追い求め、内部に己の物を擦り付けた。男がコンドームを付けたのはセシルへの気遣いではない。セシルが腹に残った精液をどう思おうと男にとってはどうでもいい。ただ単に軟膏に塗れている粘膜へ直に触れないようにしただけだ。潤滑油代わりの軟膏は男の陰茎を通じて内部にまで塗り広げられる。
拡張の苦しみや切り裂かれる痛みは変わらないというのに、肉体を蝕む薬効はそれに快楽を付随させる。相反する感覚に意識が飛び、気が狂いそうだった。
覆い被さる存在は何度も入れ替わった。一人が薬を塗り込み、もう一人が自身の性欲を解消する。どちらが何をしているのか判断する理性さえセシルは奪われていた。譫言で何度も助けを求めたようにセシルは感じていたが、自身の声は男達の嘲りと絶え間ない水音で掻き消され誰にも聞こえる筈がなかった。
気がついた時、既にセシルはホテルの部屋へと戻っていた。全身汗と粘液に塗れている上から服を着ているらしく、ベタベタとした感触が気持ち悪い。ふらつきながら服を脱ぎ、セシルは半ば倒れ込むようにしてシャワー室に入った。
「ふ…………ゔぅ……」
頭から冷水を浴びることで、体内に残った熱が少しでも冷めるように祈る。残った軟膏が洗い流され、頭から足先までセシルの全身を辿り落ちていく。それはまるで全身にこびり付いた穢れさえ落としてくれるような気がした。
「……ぁ…………あっ、く……そんな……っ……」
だが徹底的に嬲られた躰は水圧からも快感を得る。表皮は冷えていくのに、内部に抱えた熱は悪化していくように思えた。反射的に脱衣所まで逃れると、セシルはその場に座り込む。
中途半端に刺激された躰が疼く。だが、その欲を解消したいと考えることさえあまりにも惨めだった。
シャワー室に戻り、一瞬の躊躇の後、蛇口を締めたセシルは、残された体力で癒やしの魔法を使った。力が体内の毒を中和していく。薬効を完全に消し去ることは出来なかったものの、何もしないよりはマシだった。これが今のセシルに出来る最大限の抵抗だ。
しかし全身を支配していた悍ましい感覚が抜けるにつれて、薬効でごまかされていた鈍痛が増していった。立ち上がることも出来ないほどの怠さと痛みがセシルの躰を支配していく。
だがそれを非日常の快楽から抜け出す道標にして、セシルは少しずつ正気に返っていった。
そして自らの存在がどれほど踏み躙られ嬲りものにされたのかを改めて知覚していく。彼は最早顔をあげることさえ出来ずに、呻きに似た声を洩らした。こうして正気に戻ることはセシルにとって幸福なことなのか、それは誰にも分からなかった。