たくさん愛してください

僕とあの子

「え……? セシル君……?」  僕の目の前であの子は、とてもお似合いの女の子にキスをしていた。  話はやや遡る。僕は外見も能力も平均よりずっと下で、他人に蔑まれ、こき使われ続けるクソみたいな人生をこれまで歩んでいた。でも、それなりに名の知られているライブ会場が職場だった関係で、あるアイドルに僕は出会う。当時、要領の悪い僕は同僚から仕事を押し付けられて、大量の荷物を抱えようとして床に全てぶちまけていた。  クソ、また一からやり直しかよ。そんな文句を吐きながら段ボールを拾おうと屈んだ瞬間、優しい声が耳へ届いた。 「大丈夫ですか? 随分大変そうです」  顔を上げると、外人が心配そうに僕を覗き込んでいた。 「……そんなもん見れば分かるでしょ。大変だよ。君誰? 開演時間も近いんだし、さっさと持ち場に行った方がいいんじゃない?」 「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です。まだ時間には余裕があります。少し手伝わせて下さい」  シンプルだけど高そうな腕時計に目をやりながら、その人は微笑む。イライラして当たり散らした僕に嫌な顔一つしないどころか、仕事の手伝いまで申し出た。  そんなことを言ってくれる人なんて今迄誰もいなかった。  驚きのあまり茫然としている僕が答えられないうちに、その外人さんは手際よく荷物を拾い集めて運び始めた。 「え……あの……」 「この荷物ならBブロックで使うものですね。これを全て一人で運ぶのは難しいです。大変でしたね」 「………ありがとうございます」  情けない僕はそれだけ言うのが精一杯だった。その人のおかげで、半ば嫌がらせで与えられていた仕事はずっと早く終わった。お礼を改めて言う暇も無く、その後すぐ外人さんは僕から離れてどこかへ駆けていった。本当は時間が押している中で僕を手伝ってくれたのだろう。仕事を押し付けてきた同僚から本当に一人でやったのかと皮肉を言われながら、僕はあの人とした僅かなやり取りをずっと反芻していた。  時間の無いこともあってすぐに解放された僕は、そのまま飲料水を運びに舞台袖へと向かった。また会えるだろうか。そんな思考が脳裏を掠める。典型的なデブで、不細工で、臭くて、愚図な僕に初めて微笑みかけてくれたあの子。あんな子は二人といないだろう。それに凄くイケメンでスタイルも良かった。きっとダンサーか何か、ステージに立つ人なんだろうな。その場にいるだけで引き込まれるような、神秘的な……。  考え込んでいた僕は前を歩く人に気づかず、思い切りぶつかってしまった。ペットボトルが床に転がる。 「えっ、あっ、す、すみませんでした!」 「また会いましたね」  導かれるように顔を上げると、さっきの外人さんがいた。  その時僕は雷に打たれた様に思い出した。今日のステージの主役、気鋭の新人アイドルのことを。 「お水をありがとうございます。アナタもワタシのステージ、楽しんで下さいね!」  愛島セシルは僕だけに微笑みを向けると、煌めく舞台へと進んでいった。もう仕事なんてどうでもよかった。僕は舞台袖から食い入るようにあの子を見つめていた。そのステージは圧巻そのものだった。彼が紡ぎ出す甘く切ない歌声、そしてその魅力を完璧に引き出している曲は今迄アイドルなんて興味が無かった僕でさえこれ以上ないほどに胸が締め付けられた。  そして、改めて見るとあの子は本当に綺麗な子だった。  日本ではなかなか見かけない褐色の膚、光の加減で絶妙に色が変わるオパールみたいな瞳、サラサラな髪、神秘的で端正な顔立ち、でも微笑むと年相応の幼さが見える多彩な表情。そして僕みたいなカスでも見捨てることはない、とても高貴で、優しい内面。  セシル君はたった一度のステージで僕を魅了し、唯一の希望になった。それから僕は熱に浮かされたように、セシル君のCDやグッズを買い漁った。四畳半の狭い部屋はすぐにそれらで一杯になってしまったけれど、どうでもよかった。ファンである僕に向けるあの時みたいな優しい微笑みに、甘い愛の言葉を聞いているだけで本当に幸せだった。  ただ、満たされた気持ちになる度に一つの不安が僕の中で頭をもたげていった。セシル君はあんなに優しい子だ。きっと僕以外にも色んな人に優しくしているに違いない。その上であんな僕らへの愛しか詰まってないような曲に、普段僕らにかけてくれる甘い言葉の数々だ。  きっと勘違いしている輩もいるに違いない。自分こそがプリンセスになれるなんて考えを持ってる女共なんかにセシル君が惑わされるとは思ってないけど、そんな奴らにセシル君が穢されてしまったら可哀想じゃないか。  だからあの子を守ることにした。  僕達がいるのは広いようで狭い業界だ。寮の場所とか、その日の大まかなスケジュールとか、事務所から公開されていないような情報も仕事柄少しだけ知ることが出来る。僕はあの子を守りたい一心で、そんな僅かな情報を血眼で掻き集め、雨の日も風の日もこっそりとあの子を見守り続けた。そのお蔭で何人かの質が悪いストーカーを追っ払うこともあった。セシル君は優しいから、男も女もすぐに勘違いする奴が周囲に出てくる。困るよね。でもそうやって守る過程でいつも姿が見れるのは本当に幸せだった。  どんな時もセシル君は優しくて、格好良くて、可愛らしかった。残念なことにセシル君が住んでいる寮まではセキュリティが強すぎて見ることは出来なかった。だけどそれ以外の場所のどこでも、僕はあの子を守ることが出来た。常にあの子を見つめていて分かったけれど、セシル君はとても賢い子だった。周りに女はいるけれど、どの相手でも仕事上仕方なく関わっているという体勢を保ってたし、仲間内では普段テレビで見るような楽しそうな笑顔を見せていた。  けれども心配なこともあった。日が経つにつれて、セシル君の顔色がどんどん悪くなっていくのだ。僕があの子を見守っていた期間の後半は特に酷かった。何処かに行く度に血の気の無い顔で周囲を警戒して、僕が見失いかけたことだって何度かあったくらいだ。きっと僕が駄目だから気づけなかっただけで、悪質な輩が周囲にいたんだろう、可哀想に。これ以上何かあったら心配だから僕は仕事のシフトも限界まで減らして警備に勤しんだ。  もう辞めちまえとか、職場にいるだけで迷惑とか、相変わらず指差され陰口を叩かれる暮らしは変わらなかったけれど、セシル君がいればそれで幸せだった。まるで別世界にいるような、神聖で、美しくて、優しいあの子は冴えない僕の天使だった。  でも所詮それは僕の妄想で、セシル君も男で、女を抱きたいという欲望があって、アイドルなのもファンの為とかそんなんじゃなくてただの仕事で、話してた愛の言葉なんて口先だけの方便で、あの子には素敵な相手がいた。  それが分かったのは仕事先だった。再び僕の職場で愛島セシルのライブは開催された。その時のセシル君は既に押しも押されぬトップアイドルまで、異例のスピードで駆け上がっていた。そんなアイドルのライブとなると、半ばクビみたいな僕でさえ人員不足で駆り出される。問題なくステージは開演し、前回以上の熱狂で会場は包まれていて、裏方である僕達は目が回るほど忙しかった。でも僕にとっては何の問題も無かった。仕事をしながらセシル君を見守ることが出来るのだ。これ以上の趣味と実益が重なったことがあるだろうか。それどころか仕事として、セシル君と堂々と語らうことだって出来るかもしれない。あの時みたいに、もう一度。僕はたまらなくなってペットボトルの水を掴むと、あの子の元へと走り出した。  会場から割れんばかりの拍手とアンコールの声が響く中、セシル君は舞台袖に佇んでいた。漏れ出る光の中にいるあの子はいつもよりずっと綺麗で、僕はつい普段の習慣から、バレないように隠れてしまった。……駄目だ、折角のチャンスなのに。勇気を振り絞って物陰から歩き出そうとした瞬間、その隣を誰かが通り過ぎた。  その子はセシル君専属の作曲家だった。既に曲も出来上がるどころか、本番なのに今更作曲家が何の用だよ、そう内心で毒づく僕にセシル君も作曲家も気づくことなく、二人は話を始めていた。 「お疲れ様です。セシルさん」 「ハルカ……!」  その瞬間、作曲家を見るセシル君の目が、普段の仕事場で見る時とも、事務所の仲間と一緒にいる時とも、全く違うことに僕は酷く動揺した。飛びつかんばかりにセシル君は、春歌とかいう作曲家を抱きしめていた。 「セ、セシルさん! 人が見ていたら……」 「すみません。どうしても今アナタへの想いを伝えたくて……お願いです。もう少しだけ」 「……はい。あの、今日のステージも素晴らしかったです。最近のセシルさん元気がありませんでしたし、心配でしたから安心しました」 「ハルカがいてくれたからですよ。だからこそワタシは頑張れました。……ほら、聞こえるでしょう。皆がワタシ達の新曲を喜んでくれています」  セシル君の言葉を聞いてあの女は頬を紅潮させ、嬉しそうにステージを見つめていた。その横顔をセシル君が愛しげに撫でる。するとそれが合図のようにあの女はセシル君に向き直った。  その時、舞台袖で僕は見てしまった。 「え……? セシル君……?」  僕の目の前であの子は、とてもお似合いの女の子とキスをしていた。  そこから先の会話は僕には聞こえなかった。聞きたくなかった。ただ目が離せなくて二人を食い入るように見ていた。あの女は会場までの光を指さし、それを見たセシル君はあの女をもう一度抱きしめると、あの時僕にしてくれたみたいに、いやそれよりずっとずっと幸せそうな笑顔であの女に微笑みかけてステージへと戻っていった。  作曲家の女の存在は知っていた。それでも普段の二人の様子からは全然分からないから気付かなかった。そもそもあの事務所は恋愛禁止だったなと僕はぼんやりと思い出した。あの時は周囲に人もいない奇跡みたいな瞬間だった。多分油断したんだろう。手の中にあったペットボトルは醜く潰れていた。  ガラガラと脳内にあった理想が崩れていく。セシル君がずっと僕達へかけてくれた言葉も眼差しも、所詮は仕事の一環で、普段は人目が届かない寮であの女を散々抱き潰して過ごしてんだろうなという想像は容易だった。純粋そうに見せかけられてたこともそんな下らない嘘に自分が踊らされていたことにも腸が煮え繰り返る。  畜生、畜生。あいつも所詮は人の子で、とっくに将来の約束されている相手がいて。僕の人生と時間と金は底を付きかけていて。畜生。あの時の微笑みは、優しくしてくれたのは、僕の今までの努力は何だったんだよ。騙された、そう確信した瞬間に力が全身に満ち溢れていくのを感じた。その時からセシル君は僕の中で守るべき人ではなくなった。唯一の支えを失ってしまった僕の精神は日が過ぎる度に荒廃していく。  特に変わってしまったのは性嗜好だ。やたらあの子を神聖視していた反動なのかもしれない。僕の性嗜好なんて精々色が白い巨乳の子が好きとかその程度の筈だった。だけど今はそんなものより何もかも持っているセシル君が何の取り柄もない僕に組み敷かれる妄想の方に、遥かに興奮するようになってしまっていた。あの子は僕の人生だけじゃなくてこんな所まで滅茶苦茶にしていくのかと思うと堪らなかった。  精液塗れになってもあの子の微笑みが変わることはない。異臭を放つグッズをまた一つ部屋の隅に放った。既に僕の部屋に溜め込まれていたコレクションは唯のオカズへと成り下がっていた。下らない妄想で散々抜いた後には、必ずあの舞台袖の光景がフラッシュバックする。  僕がこんな惨めな自慰に勤しむ羽目になっているのに、セシル君はあの可愛い彼女を抱いているのだ。でもそんな憎しみが募れば募るほど、妄想への興奮も大きくなっていって頭がおかしくなりそうだった。  こんな生活から抜け出す方法は一つしか考えられなかった。愛島セシルを本当に僕だけのものにしてしまうのだ。あの性悪を僕だけのものにすることで、あの微笑みも、あの時の思い出も、全て穢すことなく僕のものに出来る。そして存分に罰を与えることで、僕みたいな悲しい犠牲者を出さないことにも繋がる。これは社会貢献だ。よく考えればあの女もきっとセシル君に騙されているんだろう。可哀想に。早く助けてあげないと。  最早仕事に行く気力も無く、そんな荒唐無稽な計画を練る中で、僕はある日、何もかもを思い通りに出来ることに気づいた。  最初は考えごとに夢中になってて分からなかった。セシル君に夢中でコンビニの商品を持ったまま外に出ても、明らかにそっち系の怖い人にぶつかっても何も言われないことが何度もあった。それどころか金が欲しいと思えば、目の前のおっさんが金を渡し、セシル君の情報が欲しいと思えば、仕事場に来ていた事務所の人間がその日のセシル君のスケジュールを渡してきた。 明らかに様子がおかしい世界に僕は一つの結論を下した。  恐らく僕は催眠能力に目覚めているのだ。それが覚醒した理由は、あの舞台裏の光景を見た瞬間の衝撃としか思えなかった。  奇跡だ、と思った。僕を憐れんでくれた神様が与えてくれた救い。僕だけが救われる唯一の道が今目の前にある。ならばやるべきことは一つしかない。  僕の人生を大きく変えてしまったあの子に罰を。その為に僕だけのものにしてみせる。アイドルだ、彼女がいるだなんて知ったことか。最早あの子は守るべき偶像でも僕の希望でもない。  こうして自ら課していた禁忌へと、僕は踏み込むことを決意した。
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