Pygmalion
「ふっ……う゛うぅ……あっ、ああ……セシ、セシル君……綺麗だよ…………綺麗だ。誰よりも綺麗だよ……出すからね、出るよ、出るうっ!」
浅黒い膚へ黄ばんだ精液が飛び散る。しかしセシルは変わらない笑顔を浮かべたままだった。射精した男は弛んだ頬を揺らしながら荒い息を吐く。べたついた汗が体を伝っていった。
「いっぱい出たぁ……いっぱい出たよ……。ねぇ、おいって、褒めろよ……」
セシルは精液で汚れた笑みを浮かべたまま何も言葉を返さない。男はため息を吐くと、枕に貼り付けたセシルのブロマイドを引き剥がした。
こんなに愛しているのに、それが男の口癖だった。いつから自分が愛島セシルを愛するようになったのか、ファンとしての愛が情欲を絡むものにどう変わっていったのか、そんなことをもう男は覚えていない。覚えていられないほどの時間が、男がセシルを知ってから流れていた。
一度でいい。ステージで歌い踊って愛を振りまくその肢体へ、手を触れることが出来るなら、男は何を捨てても良かった。実際にそうしようと思ったこともある。ステージに駆け上って抱き締められたら、握手会で腕を引いてその指先に口付けられたら、部屋に侵入して一夜を共に出来たら――、だが結局は夢想に過ぎない。セシルの周囲を囲む屈強な警備員やしつこい程に流れる注意喚起が気力を萎えさせ、男は肩を落として家に戻るのが常だった。
そうして男が慰めに考えついたのが、枕の改造だった。普段使っている薄汚れた枕に黄緑のタオルを巻き付けて、セシルのブロマイドを貼り付ける。それが最初だった。
「……おお」
部屋に存在している〝セシル〟を男は奇妙な感慨を持って眺めた。稚拙極まりないものでもある程度の立体としてセシルが存在しているのは、男が思っていた以上に彼の所有欲を満たした。
「セシル君」
呼びかけても返事はない。男はそれを何よりも強く抱き締めた。セシルは変わらない笑顔を男に向けている。男にとっては今はそれで良かった。僅かに救われたような気がした。
それから男は更に枕の改造に入れ込むようになった。ぬくもりが感じられるように常に温め、カバーをより手触りの良いサテン生地に替え、香水を振った。手を掛けていく度にセシルがそこにいるように感じられる。男がその枕を本当のセシルとして扱うようになるまで、そう時間は掛からなかった。
「おはよう。今朝は冷えるね」
「この前のステージ本当に良かった。一瞬だけ目が合ったのちゃんと気づけたんだよ、偉いでしょ」
「ただいま。待っていてくれてありがとう」
「セシル君ってあんまり濃厚なラブシーンってしないよね。ウブで可愛いんだから」
「好きだよ、誰よりも」
「セシル君は俺だけを見てくれてるよね。もうさ、セシル君しかいないんだよ」
「愛してる」
男は毎晩途切れることなく枕を、いや、セシルを抱くとベッドに押し倒した。甘い声が聞こえるような気がした。男は情欲のままにサテンの感触を味わいながらズボンを下ろす。すえた臭いと共に猛った陰茎が露わになった。
「っ……もういいよね、今日もずっと我慢してたんだよ。早くセシル君に会いたいなぁって。もう挿れていいよね……?」
もう男の周囲には他人の目線も注意喚起も存在しないのだ。欲を理性で押さえ込んでいた分だけ、それが解放されると抑えがたくなる。柔らかな生地の内部に仕込んだオナホールに男は陰茎を押し込んだ。
「セシル君……っ! セシル君も気持ちいいよね? やわらかいなぁ、本当に綺麗だよ。ずっと、ずっとこうしたかった……! 愛してるよ。ずっと一緒だから……っ!」
キスを繰り返す度に貼られたブロマイドは湿っていく。男にはそれが汗に塗れたセシルの痴態に見えていた。あの艶やかな髪を額に貼り付けて、セシルは自分と一つになって乱れている。はしたないくらいの嬌声をあげて、褐色の膚を光らせて、愛と快楽に溺れている。それが男の見えている真実だった。思いつく限りの愛を叫びながらとうとう男は吐精した。
「気持ちよかった……? そっか、良かった」
男は枕を抱いたまま誰よりも幸せな眠りに落ちる。この瞬間こそ男の生きがいだった。
だからこそ朝は地獄だ。後処理も忘れて放置された精液を拭いて、何の温度も無い内部を感じる瞬間。剥がれ落ちたブロマイドを捨てる虚しさ。昨日までの時間が所詮夢だと思い知らされる時――今度こそ止めよう。そう思っても男の手は自然と枕を整え、新しいブロマイドを貼り付けていた。
「おはよう、セシル君」
香水を振りかけ、抱きつくと甘い香りが漂う。それだけで男は夢に帰ってきたような気がした。
もし、この枕が本物のセシルならと、男が願わない日は無かった。まるでセシルと本当に過ごしているかのような充足感、幸福があればこそ、そう願ってしまう。自分の言葉に声が帰ってくるなら、多彩に表情を変えてくれるなら、本当に一つになれたなら、どれほど幸せだろう。長い時間、それこそプライベート全ての時間を自ら作り上げたセシルの偶像と暮らしながら、男は願い続けた。
そんなある日のことだ。仕事から帰ってきた男は部屋のドアを開けた。
「ただいま、セシル君」
「おかえりなさい」
「……?」
男は手を止めると、後ろ手にドアを閉めた。今聞こえたのは、何年も思い続けた幻聴ではない、はっきりとした響きではなかったか。
「誰……?」
「今日も一日お疲れ様でした。ああ、この言葉を掛けるのをワタシがどれだけ願っていたか」
その時、部屋の奥から歩み出てきた存在に、男は絶叫した。
高い背、艶やかな髪、はりのある膚、夢見るような瞳、空気を震わせる甘い声、そこにいるのは紛れもなく、愛島セシルだった。
「ど、どうして、どうしてこんな……、ドッキリ? こんなおじさんに? なんで? いいの?」
動揺したままの男を見て、セシルは微笑む。何度も夢見たほころぶような笑顔だった。そのままセシルは男に近づくと強く抱きついた。
「ずっと願ってくれたでしょう。ワタシに会いたいと」
「それは……そうだけど。アッ、でも今セシル君って生放送に出てるはずじゃ!?」
男が慌ててテレビを付けると、今まさに生放送で歌っているセシルが映し出された。男は呆然としたままテレビのセシルと、目の前にいるセシルを見比べる。
「君は何だ……?」
「ワタシもセシルです。ずっと愛してくれたではないですか? もう忘れてしまった?」
その時男は常にベッドにあった枕が無いことに気づいた。それと今の状況を結びつけ、床は呆然としていた。ただ、目の前のセシルから漂う甘い匂いだけが男の意識を保つ命綱だった。
それからセシルは男へ静かに語り始めた。男が薄々予想した通り、目の前のセシルは男がセシルと定義し愛し続けた枕が実態を得た姿らしかった。セシルは夢を見るような瞳で男を見つめながら、ずっと男からの愛を感じていたことや幸せだったことを話していた。
男は信じられない気持ちでセシルを見つめていた。そうしているうちにずっと叶えられなかった欲望がふつふつと湧いてくるのを感じた。夢ならそれでいい。幸福な夢を見ていたい。男はそっとセシルの頬に手を触れると、セシルは照れたように笑いながら優しく手を握ってくれた。
そのまま二人はベッドに横たわった。服を脱がせ合い、何度もキスを繰り返した。セシルの唇は男が思い描いていたよりもずっと柔らかくて瑞々しい。サテン生地とは比べものにならないきめ細やかな膚を撫でると熱い息が溢れた。鼻に掛かったような甘えた声が部屋に響く。室温が上がるにつれて、香水とは少し違うセシル本来の香りが満ちていった。
「ああっ、はぁーっ……く、……うぁ、あん」
「どう? 気持ちいい?」
セシルはゆっくりと頷いた。立ち上がった形の良い陰茎を男が扱くと、セシルは僅かに眉を寄せて息を吐く。その慎ましやかな様子が男には堪らなかった。純真で、美しくて、でも完全に何も知らない訳ではない。これから男の色に染まることも出来る余白、その若さ、何を見てもただ美しかった。
「もういいですから、早く……」
「ごめんね。嬉しくて、つい」
「いじわるしないで。アナタと一つになりたいのです」
男がセシルの頭を撫でると、セシルは甘えるように身をすり寄せた。それでもう十分だった。男は自らの陰茎にローションを垂らすと、セシルの後孔に一息に押し込んだ。
「はあぁあぁあっ……!」
「これが……これがセシル君なんだね……」
普段使い慣れた性玩具とは全く違った。人間の温かさがそこにはある。鼓動に合わせて感じられる僅かな振動、熱、粘膜の感触、そしてこちらを見つめる愛おしげな眼差し。
頬を上気させて男を見つめるセシルは、まさに男がずっと望み続けたものだった。
「夢みたいだ……、僕、僕こんな幸せで……愛してる、愛してるよ。セシル君……」
「ワタ、シも……愛しています……。ずっとアナタとこうしたかった…………」
感情が高ぶるままに男はセシルと口付けを交わし、何度も精を放った。最早目の前にいるセシルが本物かどうかなど男にとってはどうでも良かった。愛島セシルがいて、自分と愛し合っている。それ以上の喜びなどありはしない。
それから何日経ってもセシルは男の側を離れなかった。男も部屋から出ようとしなかった。最早外に自分の望む物はないと男は考えていた。セシルと一つになる時間さえあれば、それでよかった。
意外にも男に外に出るよう促したのはセシルだった。
「ワタシにアナタを紹介させてほしいのです。一緒に行きましょう?」
「誰にさ。それよりも、ねえ、もう一回……」
キスしようと近づく男の顔をセシルは笑いながら押しとどめた。
「今日の昼に番組の企画で愛島セシルがこの町に来るのです」
「それって、本物のセシル君ってこと?」
「はい。本来のワタシにもアナタがどれだけ素晴らしい人なのか教えてあげたい。きっとワタシなら分かってくれる筈です」
「セシル君……!」
男はセシルの手を強く握った。孤独な人生を歩んできた中で、これほどに男を認めてくれたのはセシルだけだったのだ。その高揚感に任せて男は久しぶりに外へ出た。
セシルは笑いながら男の手を引いて町を歩いて行く。日の光の下で見るセシルは光り輝いて見えた。無邪気な笑顔だけが男の視界を満たす。だが、いつのまにか辺りには人が増えていた。気がつくと男は近所の商店街に立っている。
『これがこの商店街の名物なのですね! Amazing!』
聞こえてきた声に男が顔を上げると、遠くに小さな頭が見えた。思わず息を呑む。既に見慣れてしまった筈なのに、何度見ても心臓が止まりそうになる。あそこにいるのが、本物の愛島セシルだった。
悲鳴をあげそうになる男の唇に、隣にいるセシルは指を当てると小さく首を振る。そのまま二人は人混みをすり抜けて、セシルに近づいた。
距離が縮まる度に鮮明にセシルの姿が見える。セシルは名物のまんじゅうを頬張っている最中だった。甘みが自然だと語りながら微笑む姿を見るだけで男は胸が締め付けられた。
休憩です、とスタッフが告げると同時に男は叫んだ。
「セシル君!」
振り向いた瞬間、セシルは目を見開いて硬直した。だが、男は何も怖くなかった。男の手には何日も共に過ごしたセシルの温かな手の感触があった。
「ずっと好きなんだ。愛してるんだよ。君が僕を紹介したいって言ってくれてね、本当に幸せなんだ。何度もキスして、愛し合って、夢みたいな夜を過ごしたよね。ありがとう。君にもそれを教えてあげたいんだ。……ねえ、待って! 何で逃げるの! セシル君が僕を紹介したいって言ったんだろ! おい、待てよ! 愛してるんだよ! 僕達を見てよ!」
男の絶叫は商店街に響き渡った。男は一人だった。彼が言うもう一人のセシルの姿を見た者はいない。鼻が曲がるような腐臭を放つ枕を握りしめた男は、呆然と立ち尽くすセシルに向かって愛を叫び続けた。
枕からは黄ばんだ白濁が垂れ落ちていた。
ピグマリオンはギリシャ神話で1,2を争うくらい好きな話です。本当です。
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