それが彼の矜持だとしても

「それでね、七海さん……あれ?」 「すみません! それでお話の続きですが」 「ああ、ごめんね。今度の新曲の話なんだけど――」  数歩前を歩くプロデューサーの方は夢中で話しながらどんどん先に進んでいく。置いていかれないように、わたしは必死になって歩いていた。それでも追いつけなくて、返事が遅れることが多くなる。わたしが半ば小走りで移動し始めた時に、ようやく会議室に辿り着いて、向こうの話を落ち着いて伺うことが出来た。  業界はとてもせわしない。移動する僅かな時間も惜しんで、人はみんな慌ただしく動き回っている。それについて行けるようにいつも気をつけているけれど、やっぱり大変なこともある。わたしはそこまで小回りがきくタイプではないから尚更だ。ふと気がついたら周囲とは反対方向にいる、なんてことも少なくなかった。  長かった打ち合わせが終わって、少しふらつきながらわたしは休憩所に向かった。蛍光灯が点っていても少し薄暗くて人もそうそう来ないから、まるで秘密の隠れ家みたいで、わたしはその休憩所がなんとなく気に入っていた。次の予定は先程の打ち合わせの決定も踏まえて、セシルさんとの話し合いだ。約束までにはまだ二十分ほどあったから、わたしは自販機で微糖のホットコーヒーを買って一口ずつ飲みながら古い椅子に座った。そうやって半分ほど飲み干したところで、磨りガラスのドアが開いてセシルさんが入ってきた。 「ハルカ! 打ち合わせが終わったのですね。お疲れ様でした」 「お疲れ様です。セシルさんはどうしましたか? たしかまだ収録中のはずじゃ……」  わたしが慌てて立ち上がろうとするのを手で制して、セシルさんは隣に座った。 「それが、予定よりも早く終わってしまいました。こんなところで合流出来るなんて運が良かった」 「そうだったんですね。それなら一緒にスタジオまで行きませんか?」 「もちろんそのつもりですよ。ですがその前にワタシも何か飲んでもいいですか? 喉が渇いてしまって」  セシルさんは自販機で冷たい緑茶を一本買うと、ゆっくりと飲み始めた。それを見てわたしは悪いと思いながらも少し安心してしまった。手元に残っているコーヒーは、一度に飲み干してしまうにはまだ少し熱すぎたから。  セシルさんとわたし以外誰もいない休憩所には、コーヒーに息を吹き掛ける音がしきりに響いていた。でもなかなかコーヒーは冷めなかった。その間もセシルさんは、今日のランチとか町で見かけた猫とかそんな適当な話をしながら、わたしを待っていてくれた。そこには待たされることに対する僅かな苛立ちも、外の世界の慌ただしさもなくて、ただ自然体な彼の姿があった。漸くわたしがコーヒーを飲み終えた時、セシルさんも残していた緑茶を飲み干した。 「すみません。お待たせしてしまって」 「そんなことありませんよ。ハルカこそ、ワタシを待っていてくれてありがとうございます」  セシルさんはなんてことないように笑ってドアを開ける。スタジオまで一緒に歩く時も、セシルさんがわたしを置いていくことはなかった。思い返せばセシルさんと歩く時に、彼を必死に追いかけたことなんて一度もない。今まで気付かなかった自分の鈍感さに呆れてしまうけど、多分、気付かせなかったことまで含めてセシルさんの優しさなんだろう。それが嬉しくて、同じくらい歯がゆくて、わたしは少しだけ足を速めた。

愛島君は生まれついての皇子様なので全く苦にしてないどころか、春歌ちゃんと一緒で嬉しいとしか考えていません

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