僕だけの君でいて

 月光が青く部屋を満たす。深い海底のような空間で愛島セシルは眠っていた。  傍らに立つ男はその姿に感嘆の溜息を漏らす。眠りという無防備な行為の中でも、その姿には気品が漂う。頬を寄せて静かな寝息を吸い込むだけで男の鼓動は高鳴った。  普段周囲を映して煌めいている瞳は目蓋に覆われている。熱を感じるほどに近づいて見ても、滑らかな膚には染み一つ無かった。春の穏やかな気候からか、その躰を覆う布団は薄く、細いようでいて力強い体格の線がよく分かる。そこに横たわる部屋の主はあまりに美しかった。  それを一人で堪能している男は対照的な醜男だった。病的なまでに痩せた躰は息を吐く度に大きく揺れる。カサついた不健康な膚には吹き出物が浮かび、目だけがセシルを映して爛々と輝いていた。  男がセシルという存在を知って、もう半年になる。  ***  沢山の人がアイドルを応援して、日々の元気の源にして暮らしている。僕も最初はそんな善良なファンの一人だった。会社に行く前に曲を聴いて、たまにあるイベントで姿を見て、ステージで輝く彼を見ることが出来れば、それだけで幸せな筈だったんだ。  いつから、それだけでは満足出来なくなったんだろう。セシル君、愛島セシル、あの存在は僕の心に食い込んで離れなくなった。もっとあの子が知りたい。誰も見たことがない姿を見たい。そんな願いが膨らんで抑えられない。毎日セシル君のことを思うだけで胸が苦しくなった。  そんなある日、少しでもセシル君を感じたくて携帯を弄っていた僕はふと思い立って、シャイニング事務所の寮の場所を検索してみた。その時僕は初めて寮が隣町にあることを知った。ネット上では最早公然の秘密だったらしい。着の身着のままで飛び出して、隣町中を歩き回ると案外すぐに見つけられた。重厚な門の奥に綺麗な庭、そこからもっと先に海外のお城みたいな綺麗な建物が見えた。あそこだと直感で分かった。僕の住んでいる町と違ってこの辺りは高級街だから立派な家は沢山あったけど、その中でもずば抜けている。  あそこにセシル君は住んでいるんだ。此処にで、あの子は、生きているんだ。そう思うだけで涙が止まらなかった。なんで自分だ泣いているのかも分からずに、僕は薄汚いジャージ姿のままで暫く蹲っていた。  幸運はそれだけでは終わらなかった。それから数日後、会社で僕の配置が変わったのだ。  防犯会社の営業をしていた僕が新たに配置されたのは、隣町。シャイニング事務所寮も当然そこに含まれていた。ただ契約を更新し続けるだけだろうと高を括っていたが、近年増加しつつある不審者対策の相談として僕はこれから何度も寮内に足を運ぶことになる。  そう、あの子がいる場所に。勿論直接会えることは一切なかったけれど、同じ空間に訪れるだけで本当に幸せで、夢みたいで、仕事中に涙が出そうになるのを堪えることも多々あった。けれどもしそんなミーハーさを持っているとバレたら配置が換わるのは間違いないので僕は必死に気持ちを抑え続けた。  日が暮れるまで打ち合わせを重ねて事務所を出た時、僕はふと誰も目にしないだろう建物の影に何かを見た。あとはもう帰るだけだったこともあって、一応不審者ではないか確認のために近づくと、そこにあったのはありふれたゴミ捨て場だった。幾らアイドルが暮らしていてもゴミは出るだろう。興味を失って踵を返そうとした瞬間、僕は雷に打たれたような気持ちになった。この場所は寮のゴミ捨て場だ。いや、ゴミだなんてとんでもない。  宝の山じゃないか。あの子の痕跡がこの中に眠っているのだ。そのまま飛びつくようにしてゴミ袋を幾つか手に取る。僕が取り付けているのだから、防犯カメラに写らない方法なんて手に取るように分かった。高まる鼓動を抑えながら慌てて家に帰ると、僕はプレゼントの包み紙を剥がすような気持ちでゴミ袋を裂いた。  転がり出てきたゴミを一つ一つ丁寧に吟味していく。DVDを包んでいたであろうビニールにはケン王の宣伝シールが張り付いている。書き損した半紙には達筆な文字で四字熟語が書かれていた。よく知らない食材の値札が大量に出てきたのは少し怖い。  そんな中で、おにぎりの包み紙を見つけた。それに見覚えがあるような気がして、震える手でセシル君のSNSを確認すると、昨日の昼に食べている様子が投稿されていた。焦るな、まだ決まった訳じゃないと呟きながら他のゴミに手を伸ばすと、あの子がオススメしていた海苔の容器が出てきた。もう耐えられなかった。最後に出てきたのはダイレクトメールだ。宛名は愛島セシルだった。瞬く間に視界が歪んでいく。これはあの子の側に在ったものなのだ。あの子が膚で感じて、日常を共にしたものたちなのだ。嗚咽を漏らしながら僕は目の前のゴミを強く抱き締めた。それに伴う異臭さえ僕を祝福しているかのように思えた。  それからは仕事で寮に行く度にゴミ袋を幾つか回収した。セシル君のゴミが引けることもあったし、何の収穫もないこともあった。それでも袋を開ける瞬間は、僕の何よりの楽しみになった。SNSで投稿されていたものの痕跡が見つかると嬉しいし、セシル君の誰にも見せない日常が僕だけに明かされてるような気持ちになる。それは正に僕が望んでいた時間だった。アイドルとしてもセシル君も、アイドルじゃない誰にも見せないセシル君も平等に愛することが出来る手段。それを教えてくれるのが愛らしい数々だった。  特に嬉しいのは割り箸だ。手に取り、その先端に口付ける度に、僕は自分の幸運が信じられない。無味の筈の箸に甘さが感じられるような気がして、そのまま何時間も囓り続けることが常だった。ティッシュなんか出てきた日にはその日は記念日だ。それが本当は何に使われていたのかは知らない。ただ、僕がティッシュを見た時に何を思うかの方が大切ではないだろうか。匂いを嗅いで、舌に乗せると蕩けるような気持ちになる。僕はセシル君の一部を体に取り込んでいるのかもしれないという興奮が全身を貫く。甘苦いそれを何度も咀嚼して、その度に体を震わせた。歓喜だけがそこにあった。  ただ、そんな幸せな日々はそう長くは続かなかった。ある日、ゴミ捨て場に向かうと鍵が付いていたのだ。僕がやったとはバレてはいないようだったけど、事務所も対策をしているらしい。僕は諦めてすごすごと家に戻った。  ドアを閉めると、数週間前とは比べものにならないくらいにゴミが散らばる部屋が広がっている。もう此処に新しいゴミは、あの子の日々は、やってこないのだ。僕とあの子が繋がる手段は唐突に消え失せてしまった。もう寮を訪れることを縁にして生きていくしかないが、それさえも長くはない。仕事の打ち合わせはもうほぼ終了している。僕の暮らしからセシル君が消えてしまうのもすぐだった。  嫌だ。耐えられなかった。そんな事実が許されて良い筈が無かった。こんなに側にいられたのに、今更前のような暮らしに戻る事なんて出来ない。  もっとセシル君の側にいたい。ただそれだけが僕の願いだった。そして僕はあることを決意した。それを実現に移すまでに苦労は沢山したが、その結果を考えればなんてことなかった。愛の為なら何だって出来ると歌っていたのはシャイニング事務所のアイドル達だったのだから。  そして数週間後、寮を訪れる最後の日に僕は計画を実行した。そのまま家に帰る筈の僕は踵を返して防犯カメラを逃れながら男性寮に忍び込んだ。施錠されている箇所は複製したマスターキーでこじ開けて、偽のIDカードを振りかざして、僕は目指す場所に辿り着いた。目の前の扉には部屋番号だけが書かれいてる。だが、それが誰の部屋なのか僕は知っていた。愛島セシル、あの子の部屋だ。そして僕の部屋でもある。今なら中には誰もいない。何度か深呼吸していると、最後の良心が囁いた気がした。それでも、そんな所で止まれるような場所に僕はいなかった。もう罪は既に犯している。あとは全てを捨て去る覚悟だけだ。自分の鼓舞するように鍵を握り締めて、静かに鍵を回すと部屋の中の空気が流れ込んできた。そこに含まれるあの子の香り。僅かな痕跡から得ていたあの香り。それが部屋中に満ちあふれている。たったそれだけで頭がおかしくなりそうだった。シックで上品な家具や纏められている書類、小さなキッチン、シャワー室。今までの答え合わせみたい光景が現実だとは信じられなかった。あの子が、この場所に、セシル君が。僕が床に蹲るとふわりと花のような僕を包んだ。あの子からの抱擁だと直感的に感じた。  椅子を撫でて、ある筈のないぬくもりを感じる。シャワー室で排水溝の水を啜ると、こんな所でさえも僕とあの子では違う気がする。洗面所では歯を磨いた。黄緑色の歯ブラシは先が僅かに広がってしまった。纏められた楽譜には僕の知らない言葉で沢山の書き込みがされていて、あの子の生きがいを垣間見た。セシル君の生活、セシル君の仕事、セシル君の努力、それが全部この部屋には詰まってる。全てが愛おしかった。僕だけがそれをこうして見ることが出来る。ファンとして何よりの喜びだ。僕達の愛は全てこうして作られているのだ。恍惚と眺めているうちに、外から足音が聞こえてきた。時計を見るといつの間にか数時間以上経っていた。僕は鞄にしまっていた栄養補助食品を食べて胃を満たした後、ベッドの下に滑り込んだ。この時ほど自分の痩身が役に立ったことはない。奥に身を潜めると同時に扉が開いた。目の前を裸足の脚が行き来する。何度も夢見た褐色の膚。  間違いなくセシル君だった。深く息を吐きながらあの子は洗面所に行って戻ってくると何か書き物を始めている。多分上の方にあった楽譜にまた何か書き込んでいるんだろう。  暫くすると鞄から何か取り出したようだった。目線が下にしかないから何をしているのか分からないのがもどかしい。でもそれ以上にあの子の息づかいと雰囲気、存在が僕に流れこんでくるようで、本当に信じられない気持ちだった。爪先だけでもセシル君は素敵だ。艶々とした丸い爪を見ているだけでも胸がときめく。その場で叫び出さないのが不思議なくらいだ。  そしてセシル君はご飯を食べたり、シャワーを浴びたり、テレビを見たりして過ごした後、ベッドの上に横になった。そう、僕の真上に。ギイとベッドが軋むだけで、あの子の重みを感じた。その後すぐに寝息が聞こえてくる。それだけじゃない。僅かな身じろぎも、子供のような体温もすぐ側にまで感じられる気がした。じっと動かないままでいたから体はもう固まって痛かったけど、そんなことどうでもいいくらい幸せな体験だった。  それから暫く僕とセシル君の共同生活は続いた。セシル君は早朝に家を出ることもあったし、夜遅くまで戻らないこともあった。  その間僕はベッドの下でセシル君を見守り続けていた。いろんなことがあったけど、歌の練習だって部屋ですることがあって、あの時は特に感動した。僕が魅了された歌声が作り出されていく瞬間、それを見ることが出来るのは僕だけの特権だった。何度もあの子の寝顔を覗いて、その美しさに胸を打たれた。同じ人間なのが信じられないと思い続けた。本当にセシル君がこの世にいるんだと深い感慨で胸を打たれた。  セシル君がいない間はあの子の部屋でシャワーの水を飲んだり、トイレを掃除してあげたり、服の埃を丁寧に取り除いてあげたりして過ごしていた。どれも満ち足りた瞬間だったし、僕のこうした行いがセシル君の力になるのだと思うと、本当に幸せだった。  でもこんな暮らしはいつまでも続けていられない。僕は自分の鞄を覗き込んだ。持ち込んだ栄養補助食品はとっくに底をついている。勝手に冷蔵庫のものを食べる訳にもいかないし、本当にこの暮らしは終わりだ。それはつまり、僕の人生からセシル君が消え去ることに他ならない。もう仕事もクビだろうし、刑務所にいけばセシル君どころではない。  それならば僕がいた場所、いいや僕たちがいた場所に何か残したいと願ったっていいじゃないか。セシル君の側に寄りそう内に僕はそれ以上の欲望が芽生えているのを感じていた。僕の存在をセシル君にも残したい。セシル君が一瞬でも僕を見てくれたらどれほど幸せだろう。あの美しい存在に僕が爪痕を残せたら。  僕は冷蔵庫を開けると入っていた牛乳に唾を流し込んだ。それが合図だった。あの子が歩いた足跡全てに丁寧に口付けて、椅子にあらゆる場所を擦りつけた。クッションにも、ベッドにも、楽譜にも、僕の生きた証が刻まれていく。これをあの子が見たらどう思うだろう、どう感じるだろう。きっと一生忘れられない。邪魔な服を僕は全部脱ぎ捨てた。  ますます心が軽くなった気がした。僕はそのままベッドに横になった。柔らかいぬくもりが全身を包み込む。僕の存在が部屋に染み込んでいく気がした。部屋には僕の臭いとセシル君の香りが入り混じって広がっている。まるで僕たちの運命が一つになった気がした。  僕が幸福の絶頂に浸ってるとドアが開いた。警備員が土足で踏み込んで何かしら叫んでいる。無粋だ。あの子の部屋に勝手に踏み込まないで欲しい。  そう叫んでも誰も聞いてくれなかった。そのまま部屋を引きずり出された僕が見たのは同期の仲間たちに囲まれたセシル君の姿だった。あの子は確かに僕を見た。  その表情には軽蔑と恐怖が克明に浮かんでいた。まるでゴミを見るかのような眼差しが僕を貫く。ああ、その時僕は何より幸せだった。 「その顔が! その顔が見たかったんだ! 僕だけのものだ! セシル君が僕にくれたんだ! ずっと、ずっと大切にするから!! セシル君のその気持ちは僕だけのものなんだ!」  連行されていく男の叫びは彼の痕跡に満ちた部屋にまで反響した。

内輪で一日で同人誌作ろうってなったときに寄稿した話。

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