とある神の喪失

「信仰、というものがあるでしょう。人によってその対象は異なっていて、概念的な神だったり、お地蔵様だったり、鰯の頭だったりする訳です。僕にとってはそれが愛島セシルだった。それだけのことなんです」  彼は真っ直ぐに前を向いたまま淡々と語っていた。私達を見ているのかと思ったが、すぐに違うと気付いた。彼は未だにあの偶像の姿を浮かべているのだろう。自分で全てを打ち崩したあの存在を。  取り調べの為に彼が連行されてきたのはつい数日前のことだった。準備が整うまで私は彼が行った犯罪について書かれた資料を読み込んだ。ストーカー及び一ヶ月以上の監禁、強姦、傷害行為。悲しいことに見慣れてしまった典型的な組み合わせの罪だったが、被害者の名前を見た時私は小さく声をあげた。愛島セシル――私がわざわざ言うまでもなく、日本では知らない者がいないほど有名な芸能人だった。  そして私は罪を犯した男と対峙している。目は合っているがその瞳に私は映らないままだ。本当に愛していたんです、と彼は掠れた声で呟いた。 「刑事さんはライブに行ったことはありますか?」 「いえ……」 「忙しいですからね。でも機会があるなら是非行った方がいい」 「夢、ですか」  事前資料から得た情報を私は敢えて口にした。それは彼が繰り返し語っていた言葉の一つだった。 「ええ。愛島セシルのライブなんて、まさに夢そのものでした。DVDで見るだけじゃダメです。あれは実際に体験してこそのものですよ」 「それであなたはあんなことを?」 「とんでもない」  彼は手を前に伸ばして大きく首を振った。彼が身動きする度に嵌められている手錠が煩く音を立てていた。 「逆です。セシル君があのままアイドルとして存在し続けるなら僕はずっと応援したいと願っていました。本当に、セシル君は僕の救い、愛、祈りそのものだったのです。セシル君さえいてくれるなら、僕はどんなことでも出来た。仕事を続けることも、いろんな人間から馬鹿にされても、どんな理不尽な目にあったとしても」 「では、何故」 「簡単です。セシル君はアイドルを辞めた、それだけのことです」 「辞めた?」 「ご存じないですか。セシル君は国に帰る筈だったんです。愛らしい花嫁さんを連れてね。後に残るのは全てを捧げて腑抜けになった僕だけです。愛島セシルがいなくなる。それは神の喪失にも等しいものです。セシル君に救われた夜が何度あったか分からない。セシル君を支えにして生きている人間、セシル君がいるからこそこの世に踏みとどまっている人間、そんなのは大勢いるのにセシル君はそれを全て捨ててしまった。そして自分は普遍的な幸せをつかみ取ろうとしたのです。それは僕だけじゃない沢山の人への裏切りだと思いませんか? あまりにも耐えがたかった。もう僕はセシル君がいない世界で生きていける自信が全くないのに」  私は記録係がキーボードを叩く音を聞きながら、黙って彼の話を聞いていた。男は穏やかな物腰を保っていたが、語る内容とそれは著しく乖離しているように思われた。 「でもセシル君は自分から聖域を抜けたんです。僕は少し伝手があってセシル君にこのことについて問うことが出来ました。遠くからでしたけどね。何故僕達を置いていくのかと叫んだ気がします。ですがセシル君は何も応えなかった。黙って頭を下げるだけでした。ああ、本当にセシル君は行ってしまうんだと思って、それから何も考えられなくなりました。僕はアイドルとしてのセシル君を愛していましたが、ただの愛島セシルに思い入れはありません。だからあんなことが出来たんです。準備をしっかりとすれば案外簡単なものでした。ですが、あまりお勧めは出来ませんね。結局僕が愛していたのはアイドルであって、愛島セシルではない。僕達はもう永遠に交わらない。そう突き付けられるだけの時間が流れるのは本当に悲しいものです」  彼の話を聞きながら、私は彼が行ったことを思い出していた。克明に書かれた監禁中の行為の数々はただそんなつまらないことを確かめる為に行われたのだと考えるだけで目眩がした。 「刑事さん、大丈夫ですか? あなたはまだ若いから分からないのでしょうね。信仰の喪失というのは本当に辛いことなのですよ。僕はそれを突き付けられていたんです。一ヶ月も」

朝の一時間執筆トレーニングで書いた話。

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