疎通

 目の前で彼が眠っている。その光景はなんだか現実感が無くて、まるで幻の中に迷い込んだように思えてしまった。月光で青く照り返っているこの部屋だと、普段の血色が褪せて見える寝顔に死を連想してしまうのも、それに拍車を掛けていた。  私のそんなセンチメンタルな想いも知らないで、愛島セシルは眠っていた。自室に私がいることも知らずに、何より深く眠っていた。  突然だが、私はアイドルとしての彼にさほど興味は無い。寧ろ、興味が無いということを私は自分の矜持のように思っている。何故なら私は彼の内面に惚れ込む理由があるからだ。周囲の有象無象とは違って、ただの人間としての愛島セシルを愛していると確信を持って言えるだろう。育った家庭はエンターテインメントの全てを下らないと一蹴する価値観を持っていたし、私自身もそうだ。何の因果か、そんな価値観の人間の方が騒ぎ立てずに都合が良かったのか、社内で私はシャイニング事務所の担当に選ばれ、事務所まで頻繁に足を運んだ。  そんな訪問の中で出会ったのがセシルだった。偶然か、必然か、駅と事務所を行き来する中で何度も道を同じくした青年と言葉を交わすうちに、私はどうしようもなく彼に惹かれていた。賢い彼は私の崇高な業務を理解し、私の勤労をねぎらい、私の価値観に触れても反射的な否定も過剰な肯定もしなかった。私をコントロールしようとも利用しようともしないその姿勢は非常に希有で、私の目を引く価値があると思わせる。セシルも私と言葉を交わすことを楽しんでいるように見えた。私という窓を通じて、今まで触れたことも無いような世界が見えるのが愉快なのだろう。だが、そのような尊敬を持って接されることもセシルが相手であれば不思議と悪い気持ちはしなかった。セシルはエンタメ等という無駄を突き詰めて生きている人種なのだから、私という実用の極地にいる存在に惹かれてしまったのだろう。恥とも言えることだが私はこの年になって初めて、他人から無償の好意という物を向けられた。今まで周囲に居た人間は程度が低い者達ばかりで私を理解しない。そのように疎まれるのは慣れていたが、これほど純粋に好かれたのは初めてだった。人生で初めて私という人間が理解出来る相手と巡り会えたのだ。敢えてオカルトめいた言葉を使うならばそれは運命と言っても差し支えないだろう。  だが、そんな満ち足りた日々はあっさりと終わりを告げた。何も変わらずに事務所のスタッフと商談を終えた後、普段はそれからセシルと駅まで戻って解散だったのだが、アイドルの待ち伏せや言葉を交わすことは控えて欲しいと告げられた。信じられないことに、アイドル当人も非常に困惑しているとまで言葉は続いた。あまりにも事実とかけ離れた酷い言い掛かりだった。これ以上続けるならば社への連絡や今後の取引も――と動く口を私はまるで他人事のように見ていた。  それまでセシルとは出会うまでカフェで待ち合わせるのを習慣としていたが、もうそんなことは出来なかった。そんな言い掛かりを事務所がつけるということは、私達の関係を好ましく思っていないということだ。セシルが困惑している等、あり得る筈もなかった。彼がどれほど悲しんでいるだろうと考えるだけで哀れだ。感情を揺り動かすことが仕事なのだから、きっと今頃悲しみで泣き崩れていてもおかしくない。私の焦る気持ちとは裏腹に日々は刻々と過ぎていった。どうしても非効率さの抜けない人種だからか、セシルは私と連絡手段も交換していなかった。直接話し合う関係だけでいたいと告げられた時に、無理に迫っていればと後悔しない日は無かった。事務所から私が呼ばれる頻度も減り、彼等の目論見通りセシルと私の関係性は断ち切られようとしていた。  私は上に立つ人種としてセシルを救う為の算段を必死に考え尽くした。コンタクトを取りたいのは私もセシルも同じ筈だ。コネならば吐いて捨てる程あった。そうして形振り構わずに突き進むうちに私の人生は少しずつ歪んでいくような気さえした。だが、私は自分に向けられている手に応えないような人間では無かったらしい。私は自分が想定していた以上に、セシルを愛していたのだと気づいたのはこの時期だった。  そうして今、漸く私はセシルの自室に佇んでいる。状況だけ見るならばこれは不法侵入と言えるかもしれない。だが、私もセシルも会うことを望んでいたのだからこれは罪ではないのだ。  セシルはその手の人間の愚鈍さが完全に抜けていないのか、私が側にいるというのに未だ目を開けようとはしない。だから今の私に与えられているのは彼を包む皮だけなのだ。私はセシルと言葉を交わしたいだけだというのに。  多くの人間が望んでいるであろう彼の外見だけが此処にあり、私の望む物はその中に沈んだままだ。一声掛ければいい、肩を掴んで揺らせばいい。そんなことは分かっている。だのに私は何故か何も出来ずに彼の寝顔を眺め続けている。私とは全く違う輪郭、鼻、肌の色、艶、そんなものを確認し続けていても何の意味も無いというのに。ただの整った物が其処にあるだけだ。伸ばしかけた手を再び握りしめる。  その瞬間、玉虫色の瞳が月光を反射していることに私は気づいた。  私は、セシルと再会している。

客観的な視点に欠けている人。

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