君と溶け合う頃

 誰もいない舞台裏で、運命を感じた。  僕が好きな人と一つになるまでの話をしよう。  今まで、恋愛なんて全く縁がない人生を歩んできた。臭いだとか、キモいだとかそんな言葉が僕の周りには飛び交っていたし、人は外見より中身だと嘯く奴らも僕が近寄るとみんな顔を引き攣らせた。友達と遊ぶことも出来ず、グレる度胸もなかった僕は孤独で平凡な人生を歩み続けて終わる。そう思っていた。  運命が変わるのは突然だ。僕の母さんの趣味はアイドルのおっかけだった。普段はその趣味に他人を巻き込むことはなかったのに、大学をサボってふらついてた僕へ、一緒に行こうと誘ったのが愛島セシルのライブだった。母さんは車を運転しながら、夢見るように愛島セシルについて喋っていた。  歌がとても上手いこと、どこかの外国の王子様なこと、僕と同い年なこと、特に最後の話は聞いてて辛かった。僕とそのセシルって奴を母さんが比べてるんじゃないかと思って、僕はライブ会場の座席に座ってからも鬱々とした気持ちが拭えずにいた。  でも、ライブが始まった瞬間、そんな気持ちは消し飛んだ。  本当に僕と殆ど年の変わらない青年が舞台に立った瞬間、僕を含めた観客はみんな彼に釘付けになった。それだけの力がセシルにはあった。  セシルはゆっくりと観客を見渡すと、愛おしげに目を細めた。その気品ある一挙一動から目が離せない。そのままセシルは大きく息を吸い込んで歌い始めた。  そこからは本当に一瞬だった。ロマンチックなバラード、明るいポップ、情熱的な民族曲までセシルが扱うジャンルは本当に広く、次々に新しい世界を見せてくれた。これが最後の曲です、とセシルが頭を下げた時、本当に名残惜しく思った。銀テープが舞い散る中で、セシルは歌いながら手を振っていた。僕はたまらずに大きく手を振り返した。  セシルは美しい人だった。ライブが終わってからも、僕はセシルに夢中だった。CDを全て買い集めて、出演番組を録画して、グッズを集めて――それでも足りなくて僕はあのライブを何度も思い返した。集めたどんなピンナップより、実際に見た姿の方が何倍も綺麗だ。思い出すほどにセシルは綺麗になっている気がした。サークルの女子や流行の女優より、セシルの方が何倍も僕の心を捕らえて放さなかった。  少しでも彼に近づきたくて、就職先も出来るだけ大きなコンサートホールを選んだ。これがセシルのいる世界なのだと思うと仕事にも打ち込めた。何年経ってもセシルへの愛が薄まることは無い。寧ろ想いが強まるばかりだった。自室の壁をポスターで埋め尽くして、ファンレターを何通も送って、ライブも見に行った。どんどん遠くなるセシルの姿を追うのに必死だった。  次に訪れた転機はつい数ヶ月前の話だ。僕の勤めているコンサートホールでセシルのライブが決まったのだ。その知らせを聞いた時、息が止まるかと思った。それから毎日必死に仕事に打ち込んで、ライブは当日を迎えた。当日はファン側として見に行くか、仕事を優先するか迷ったけれど、少しでもセシルの傍にいたくて、僕はスタッフとしてライブに参加した。前日にはリハーサルでセシルが僕達スタッフに挨拶に来てくれた。一人一人に声を掛ける時間は無くても、丁寧に頭を下げるその姿は最初に見た時よりずっと大人びていた。それから始まった通しのリハーサルはまさに圧巻だった。僕が見惚れた面影が変わらずに、いや、ますます綺麗になってそこにあった。呆然としてステージを眺めていると、背後で上司が小さく咳払いをした。漸く僕は自分の仕事を思い出して、泣く泣く舞台裏へ移動した。  漏れ聞こえてくるセシル君の歌声を聞きながら荷物の整理をして、ふと顔を上げると周囲には誰もいなくなっていた。こんな大がかりなリハーサルでは滅多に無い瞬間だ。  普段見慣れた舞台裏も、これがセシルのステージの一部になると思うと何だか特別な気がして、僕は感慨深く辺りを見渡した。  その時、あるものが僕の目に止まった。  セシルが水分補給に使うペットボトルが長机の上に置かれている。黄緑のキャップには同じ色のストローが刺さっていた。誰もいない舞台裏にはセシルの歌声だけが響いている。  魔が差した、と言えばそれまでだが、その瞬間、僕が感じていたのは運命だった。  震える手でキャップを開けて、少し減っているその中身を一口飲む。ただの水のはずなのにやけに甘く感じられて、暫く舌で転がした後にそのままボトルに吐き戻した。透明だった水は泡立って少し濁った。キャップを締めて元に戻した時、遠くから誰かが来る足音が聞こえた。慌てて僕が机から離れると同時に、汗だくになったセシルがその場に駆け込んできた。すぐ側を通られるだけで花のような香りがした。 「お疲れ様です」 「お、お疲れ様です……」  やっとのことで声を絞り出した僕へ、セシルは優しく微笑みかける。気が狂いそうだった。目の前に理想がいる。焦がれ続けた人がいる。それだけで僕は信じられなかった。  セシルはそれ以上僕に気を止めることなく、汗を拭きながらペットボトルを手に取った。 やめて、って咄嗟に言葉にしかけて、喉から先に言葉が出て行かなかった。  何も知らないセシルは喉を鳴らして水を飲んだ。喉が動く度に胸が苦しくて、罪悪感と悦びが入り交じって頭がおかしくなりそうだった。 「では、明日もよろしくお願いします!」  立ち尽くしていた僕に、セシルは笑顔を向けると、そのままステージに戻っていった。また歌声が聞こえてくる。僕が絡みついた喉でセシルは歌っている。あの頃の美しさを残したままで。

2023/1/29 プリコンにてペーパーとして頒布した短編です

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