累積する日々

 二,三歩分、離れて歩く姿は吐く息の中で霞んで見えた。  新春、と表現するには少しずれた一月の半ばは芸能界に生きる人間にとって、番組の収録や劇伴の編集、年越しライブの準備とめまぐるしい日々が漸く終わりを告げる時期だった。数週間ぶりに纏まった時間が取れたその日、セシルと春歌はとある町へと向かった。 人通りの少ない、時代に忘れ去られたようなその小さな町は、人目を避ける必要がある彼らには丁度良かった。裏道でタクシーを降りて歩いた先にある商店街も、正月飾りを付けた店こそ幾つか残っていたものの相変わらず人影は疎らだった。  他人だと思われるまで離していた距離が少しずつ縮まっていく。その分だけ春歌はマフラーに顔を埋め、セシルは深く帽子を被り直した。息を吐く度に彼の伊達眼鏡が少し曇る。それでも相手の隣を久しぶりに歩けることに彼らは言い知れぬ高揚を覚えていた。旧正月に掛けて売り出されているイチゴ飴、道先にまで溢れ出す古本、微妙に目線を逸らして通り過ぎた魚屋、趣味の良いアンティーク、密やかに、時に足早に覗いていく中で、二人揃って足を止めたのは一際寂れた楽器店だった。 「あっ…………」  同時に口を開いた彼らは顔を見合わせると、どちらともなく微笑んだ。 「結局こうなりますね、わたし達」 「Yes.それがワタシ達の一番の喜びですから」  セシルが扉を開き、春歌を室内へと導く。やや埃を被っていた外装とは裏腹に、内部は塵一つ無く手入れされていた。店員らしき人影は無く、明かりだけが付いている。彼らは目を合わせて頷くと店内へそれぞれ歩を進めた。無音だった部屋に足音だけが響く。  春歌が熱心に楽譜を捲り始めたのを視界の端に入れながら、セシルは楽器の吟味を始めた。ピアノ、クラリネット、ホルン、コントラバス――自国のものほど高級では無いものの、どれも価格以上の質が高いもので店主の品揃えには敬意を払わずにはいられない。その中でも一際彼の目を引いたのは一つのフルートだった。やや目立たない場所に置かれていても銀の胴部は店内の淡い光を受けて鈍く輝いている。他にも幾つかフルートはあったが、セシルは不思議とそれから目が離せなかった。 (あっ……)  いつになく熱心なセシルの後ろ姿を眺めているのは春歌だった。抱えている五線譜が僅かに擦れ合う。そんな音でさえ静かな店内ではやけに大きく響く気がした。  育ちの関係でセシルが楽器に熱を入れるのは珍しくないことだったが、今日の彼の目に映る感情は普段以上に思われた。それほど熱心な様子を見てしまえば、贈り物にして喜ぶ顔が見たくなるのは恋人として当然の帰結だ。春歌は財布の中身を思い浮かべながら、目を閉じる。セシルの目に留まるだけの代物ではあるが、今からならば記念日――例えば彼の誕生日、であれば充分に間に合う筈だ。意を決して視線をやると他の楽器の値札が幾つか見えた。だが、肝心のそのフルートだけはそれらしい値札が何処にも無い。セシルの体で見えないのかとそれとなく歩いて角度を変えても同じだった。  改めて辺りを見渡すと、奥の扉からエプロンを着けた老婦がちょうど出てくるのが見えた。老婦はそのままレジ付近に置かれた木製の椅子に腰掛け、何やら帳簿を付け始める。店の関係者と考えて間違いなさそうだった。春歌は老婦に近づくと、やや声を抑えて口を開いた。 「すみません。あの男性が見ているフルートはいくらでしょうか?」 「…………あら」  ゆっくりと顔を上げた老婦はセシルの方を見ると細い目をやや見開いた。 「ごめんなさい。あれは違うのよ」  老婦は立ち上がると春歌へ深く頭を下げた。春歌より低い身長で頭を下げられるとより小さく見える。 「あれは昔に夫が吹いていた物で、売り物じゃないの。ごめんなさい」 「えっ、あの、こちらこそすみませんっ」 「いいのよ、ダメね呆けちゃって。手入れの後に紛らわしいところに置いたのが悪いの」  そう言うと老婦はセシルの元へと早足で向かって行った。セシルにも深く頭を下げて、事情を説明している声が聞こえてくる。春歌も後へ続くと、セシルは全て合点したような顔をして頷いていた。 「これを見れば分かります。旦那様は素晴らしい音楽家だったのですね」  セシルがフルートと手渡しながら呟くと、老婦は途端に顔を綻ばせた。フルートを見つめるその眼差しは、まるでそれが此処に居ない人の一部であるかのように思わせる。 「そうなの。素晴らしい人だった。結局プロにはなれなかったのだけれど、あの人がこれを吹いて、私がそれに合わせて歌って、本当に楽しかったわ」  老婦の瞳の輝きは、語る情景が昨日のことのように鮮やかなことを言葉以上に明確に語っている。彼女はこれからも、この音楽の記憶を抱え続けて生きるのだろう、とセシルは予感していた。その愛情の名残だからこそ、あのフルートに自分は目を惹かれたのだろうとも。  老婦は夢から覚めたようにため息を吐くと、セシルと春歌へ視線を戻した。 「ねぇ、貴方たちも音楽をしているのね。手を見れば分かるわ。……きっと素敵なんでしょうね」 「はい。いろんな方に伝わるような曲になればと、いつも思っています」  静かだった部屋に春歌の声は芯を持って響いた。老婦は春歌の手を取ると深く頷く。 「やっぱりね。次に来る機会があったら貴方たちの音楽を聞かせてちょうだい。約束よ」 「……はい!」  楽譜用紙の費用だけを払い、小さく手を振られながらセシルと春歌は店を出た。時計を見れば30分も経っていなかったが、それ以上の時を過ごした気がした。そのまま二人は目的も無く歩を進める。何故か、他の店にすぐに入ろうとする気が起きなかったのだった。 「ありがとう。プレゼントを贈ろうとしてくれて。その気持ちが嬉しい」 「いいえそんな。此方こそありがとうございます。結局わたしが買い物しただけですし、そんな風に言われるとちょっと恥ずかしいです……」  セシルの言葉に春歌は頬に血が巡っていくのを感じる。だがそれ以上に彼女の心を満たしていたのは、あの老婦の夢見る眼差しだった。 「……でも良いお話が聞けました」 「ええ。ワタシもあのフルートに出会えて良かった。あれはとても値段なんて付けられないものでしたね」  時が流れていく中で、あのように満ち足りた思い出を残していきたいと願う此処とは同じだった。人影の無い通りに入り、二人は指先だけで手を繋ぐ。わざわざ言葉を交わさずとも相手が同じことを思っていることが、その暖かさから伝わっていた。新しい日々がまた始まろうとしている。

書き初めとして書いた話でした。

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