水中の光

 遅すぎた一条の光が差す。暗闇の中でドアを抉じ開けると、吐き気のするような腐臭が救助隊の鼻腔を犯した。その瞬間、彼等の脳裏には最悪の事態が過る。だが、外光に照らされ蠢く集団は即座に発見された。猛吹雪と雪崩の中で行方不明になった撮影チームは全員生存していた。生存することだけは出来ていた。腐臭の中心には男達が群がり、その輪の中に服を身に着けているものは居ない。それ自体は寒冷地の遭難では別に珍しいことでもないが、それが躰を暖める為ではないとなると話は別だった。部屋の入口で茫然としている集団が長らく待ち望み、そして恐れていた救助であると気づいた者から、青ざめた顔で部屋の隅へと離れていく。次々と溢れる啜り泣きは救助される喜びでも行った非道への罪悪感でもなく今後の自分達を憐れんだものだ。  後には一人だけ取り残されていた。  精液や血、胃液、尿など数か月分のあらゆる体液が幾重にも飛び散った床。それに突っ伏している人物の表情を窺い知ることは出来ない。だがこれまでに何が行われていたかは一目瞭然だった。その光景を真正面から見てしまった善良な者達の中には、その場で座り込み動けなくなる者もいた。  一人の隊員が咄嗟に駆け寄り抱き起すと、硝子玉のように動かない目が露わになる。表情も消え失せ、唇からは唾液と精液の混合物が垂れ流されていた。死んでいないのが不思議なほど衰弱し、哀しいまでに軽い躰。物言わぬ人形同然の少年こそ行方不明のアイドル、愛島セシルその人だった。  愛島セシルが見つかった。  既に生存は絶望的とまで思われていた中で、その吉報は瞬く間にシャイニング事務所を駆け巡った。その知らせを誰よりも待ち望んでいた彼女の元にも。 「本当ですか……!? 体調は? 無事なんですか? いつ会えますか!?」  事務所でピアノへと向かっていた春歌は龍也から話を聞いた瞬間、思わず矢継ぎ早に質問を重ねていた。すぐ傍には勢いよく立あがった反動で転げた椅子が放置されている。今の春歌に普段の控えめな様子は無く、ただ驚きと歓喜が満ち溢れていた。 「おい待て、落ち着け! あいつなら一先ず生きてる。あと、気持ちは分かるがすぐには会うことは出来ん。少し待ってくれ」  詰め寄られた龍也は何とか春歌を押し留め、軽いため息を吐いた。 「分かりました。でもセシルさんは無事……なんですね」 「ああ。命の別状はないらしい。……だが衰弱が酷くてな。暫く面会遮断だそうだ」 「仕方がないです。一カ月も行方不明だったんですから。でも、良かった……本当に……」  そこまで言うと春歌は胸を詰まらせた。開かれていた楽譜が落とされた滴で滲む。  必ずセシルは帰ってくると信じていた。だが、無慈悲に重ねられる日々に、隣に感じられない体温に、決して埋められない空白を思い知らされる。もう二度と、と思ってしまう度に足元から崩れるような絶望が忍び寄る中で、この吉報だった。小さな躰を更に縮めるように春歌は目元を擦る。その瞬間、龍也の表情に暗澹が過った。だが春歌が顔を上げた時には、龍也も相応しい冷静な表情を取り繕っていた。 「とりあえず面会許可が下りたらすぐに連絡する。皆にもセシルの無事を知らせてこい」 「はい! ありがとうございます!」  春歌は顔を輝かせ頭を下げると部屋から駆け出ていった。それとは入れ違いに部屋へと人影が滑り込む。 「林檎……」  林檎は龍也の呼びかけに頷いて答えた。龍也と同じくその表情は暗い。春歌が去った今、龍也も林檎も沈痛な面持ちを隠さなかった。 「面会遮断、ね。……そうよね、そうとしかあの子に言いようがないわ」 「それ自体は事実だ。実際とてもじゃないがあの体調じゃ誰にも会えない。だが……」  龍也は壁に拳を叩きつけた。静寂が支配する部屋に壁の軋む音が冷たく反響する。 「……あいつが何したって言うんだ」  “偶像”としての愛島セシルは跡形もなく破壊されていた。あれ程力強く地を蹴り、指先まで活力に溢れていた肢体は硝子細工のように固まり、無数の消えない傷跡は醜い彫り物さながらに浮かび上がっていた。そして誰もが魅了される歌を奏でていた美しい声は既に喪われていた。社長の惜しみない援助で湯水の如く金が使われ、最悪の事態は免れたもののセシルの体調は常に予断を許さない状態が続いていた。それだけ彼の衰弱は著しかった。意識自体は回復し、肉体的機能はどうにか息を繋いでいる。  だが精神面となると話は別だった。愛島セシルの生きようとする気力は根絶されている、彼を診察した医師団はそう口を揃えた。セシルは外部に反応することさえろくに出来なかった。何を呼びかけても自ら動くことも、身振りで応えることもない。それどころか彼は治療自体を嫌がっていた。巻かれた包帯を引き剥がし自ら傷を開かせ、薬も食事も何もかも拒絶していた。点滴さえも引き抜かれてしまう状況を危惧した病院がなんとかして摂取させようとしたこともあった。  その時セシルに出されていたのは栄養剤と薬だった。 「愛島さん、おはようございます。御加減は如何ですか?」 「……」  看護師から声を掛けられた時、セシルは上体を起こし目覚めていたらしかったが、何の反応も返さなかった。何も映していない玉虫色の瞳が虚空へと向けられている。 「少し顔色が良くないですね。おくすりをちゃんと飲んでくださいね」  水と共にベッドの脇に置かれた薬に漸く視線を向け、セシルは僅かに首を振る。だがそれ以上の目立った抵抗はない。寧ろ萎縮し身を固くしているその姿からは、抵抗したくても出来ないのではないかと看護師は推定していた。差し出された水と薬もセシルは一旦口へ含む。 「ありがとうございました。では、また何かありましたら呼んでください」  薬を飲み込んだのを確認した看護師が踵を返す。その瞬間セシルは指を喉奥に入れ、飲み込んだばかりの薬と栄養剤を全て吐き出した。粘度の高い胃液が喉を塞ぎ、げえげえと空気が鳴る汚らしい音だけが病室に響く。ぼたぼたと重い吐瀉物がベッドへと散った。 「あー大変だ、だから点滴にした方がいいって僕は言ったのに……っ?」  大丈夫ですか、と呼びかけて汚れを拭き取ろうとした看護師は言葉を続けられなかった。  自らへ伸ばされた看護師の、男の腕を見た瞬間、初めてセシルの顔に明確な感情が表れていた。それは尋常ではない恐怖。既に機能を喪っている喉を震わせると、セシルは自分の吐き出した吐瀉物を刷り込まれた習慣のままに食した。少しずつ布団へ染みこむ液状の物体を追うように掻き集め、家畜さながらに貪る。血相を変えた看護師が止めようとしても、半狂乱で胃へと収め直そうとする姿は明らかに異常だった。  世間は春を迎えようとしているのに、彼の精神は未だ雪山に閉じ込められていた。セシルは周囲の人間全てに完全に心を閉ざしたままだ。生きているのか死んでいるのか実感が出来ないまま1日が過ぎ、灯が消えるようにセシルの精神は力尽きようとしていた。このままでは治療も儘ならず、病院側が取れる手段は一か八かの賭けしか残されていなかった。  1カ月、2カ月と経つうちに、春歌の不安は増すばかりだった。セシルは本当に命に別状はないのか、苦しい思いをしていないか、酷い怪我をしているのではないか、そんな悪い想像をしてしまうのは仕方のないことだ。そんな中、唐突に春歌へ面会許可の知らせが届いた。  その病院は想像していたほど豪勢でもなく、殺風景でもなかった。現在セシルの主治医をしているという女性と二人並んで春歌は廊下を歩んでいた。元々は主治医は男性だったそうだが、諸事情で変更になったらしい。窓の多く庭の緑が眩しい程に目に入るその場所は病院と言うよりも、サナトリウムを思わせる。そこまで考えを巡らせた時、春歌は悪寒に身を震わせた。 「お恥ずかしい話ですが、もう私達には取り得る手段が無いんです。彼……愛島さんは最後まで嫌がっていたのですけれど」 「わたしに会うのを嫌がっていたんですか……?」 「すみません。余計なことを言ってしまいました……本当に申し訳ありません」  ある扉の前に着くと女医は足を止めた。壁には「愛島セシル」と書かれた札が張ってある。女医は春歌へ深々と頭を下げるとその場を去っていった。 「あっ、ありがとうございました」  春歌も頭を下げた時にはもう既に女医は廊下を曲がり、姿を消していた。残された春歌は古ぼけた木造の扉を見つめた。この向こうにセシルがいると思うと張り裂けそうな思いが胸を抉った。長い時間姿を消していた恋しい面影が飛来する。直ぐにでも扉を開けたかったが、面会を拒んでいたという言葉が春歌を躊躇わせていた。震える手で三回扉を叩いたが返事は無い。水を打ったような静寂だけが辺りを包んでいた。 「……セシルさん、います、よね? 何言ってるんでしょう。病室だから当たり前ですね、ごめんなさい。わたしです。春歌です。……入ります」  覚悟を決めて扉を開いた先で、セシルは起き上がり窓の外へと視線を向けていた。春歌の記憶にあるよりもその姿は酷く痩せていた。髪も僅かながら伸びており、襟足が少年のように細くなった肩へと掛かっている。セシルが春歌の姿を見た瞬間、その目に喪われていた光が過る。だがそれはすぐに再び呑まれるように曇った。彼は静かに泣いていた。 「セシルさん……!」  春歌はたまらず近寄ろうとするが、セシルはそれを首を振って止めた。彼の唇の動きが“来るな”と告げている。  どうしてと口を開きかけて、言葉を継げなかった。セシルの首筋に付けられた無数の傷跡が憎々し気に春歌を睨む。切り傷、擦過傷、煙草の火傷痕、痣に変わっている歯型。それは災害で出来たものではなく、人工的に刻まれた物だった。これらが何を意味するのか、尋常ではない苦痛がセシルを打ちのめしたことしか今の春歌には分からなかった。  思わず伸ばしかけた手を胸元で握り締める。春歌がその場に踏みとどまったのを見て、セシルは安堵したように息を吐いた。その時には、春歌にはセシルが先ほどから一言も発さない事実に気づいていた。あれ程音楽を愛していた彼が陥った苦境に、心臓が煩い程に鳴り響く。セシル自身きっと死が間近に迫るまで追い詰められて、苦しみ抜いたに違いなかった。でも、それでも。 「……生きててくれて良かった」  想いが口をついて出ていた。自然と視界が滲み、瞳に映るセシルの輪郭が薄れていく。 「セシルさんが行方不明になったって……聞いた時、もう二度と逢えないかもしれないと思いました。……だけど……どんな形でもいいから、ずっと、逢いたかった……」  セシルも目を見開いて春歌を見つめていた。頬に幾筋もの線が伝う。引き裂かれた恋人達の視線は抱き合うように絡み合った。  その時、面会期限を告げる声がドアの外から響いた。許可された時間の短さもセシルが置かれている現状を無慈悲に春歌へ告げていた。 「……まだ逢いたくないって聞いていたのに、逢ってしまってごめんなさい」  春歌はそれだけ言うと名残惜し気にゆっくりと扉を閉じた。後には再び静寂に包まれる。  その中心でセシルは声も無く嗚咽していた。自身の浅ましさに気が狂いそうだった。もう逢えないと誓っていたのに、春歌の前にこんな無様な姿を晒したのだ。部屋を出ていく寸前の春歌の表情は涙に濡れ、いつも薔薇色の頬は蒼白になっていた。あんな顔をさせてしまったのはセシルだ。最後にもう一度だけ会いたい、そんな未練がましい思いに囚われて春歌に逢ってしまった自身をセシルは殺したいほど憎んだ。 「やはり明確な反応が……」「……今後も定期的な……」「しかし何故急に……」「見れば分かるさ、恋人だからだろ」  病室の外で途切れながらも関係者の声が響く。自身への嫌悪の感情とは相反する歓喜もまた心から湧き出ているのは事実だった。それは医師達が推察している通り春歌がセシルの“恋人”だからだ。彼女は、地獄の中で何度も思い描いた恋しい面影は、何一つ変わらず美しく、優しかった。髪の一筋、指先の動き一つまで何度も思い描こうとして、セシルは自身を罰するように首を振った。 もう二度と春歌にセシルが逢うことは出来ない。春歌に向き合っていたのもこれ以上セシルに近づけないようにする為だ。既にセシルは春歌の知る彼自身ではなくなっているのだから。服を一枚脱げば躰にはまだ生々しい傷跡が、春歌が見たものの何倍も刻み込まれている。口を開いた所で彼女の音楽と繋がる為の手段は跡形も無く破壊されていると突きつけられるばかりだった。 「……っ……!」  恋人の涙に濡れた顔と、忘れもしない悍ましい感触が交互にフラッシュバックしていく。全身が汚濁に浸され、穢されていく感覚。血肉に至るまで染み渡った妬みと劣情。それらは最早セシル自身の根幹まで同化し、決して消え去るものではない。  厭きれるほど暢気な陽光が部屋を包み、開けられた窓から風の吹き込む音だけが響く。悲痛な嗚咽さえ彼は静かだった。  治療で手を伸ばされるだけであの拷問の記憶が鮮明に蘇る現状。腰の痛みの幻覚を見ない日など一日たりともなかった。それでも狂わされた性欲はセシルを着実に蝕む。休むことなく快楽に浸けられた月日はあまりに長すぎた。どうしようもなく孔を埋めるものを欲し、周囲の目を盗み気絶するまで自身を指で苛め抜く日々が続いている。後遺症で眠れなくなった躰は監視の目が逸れる時を窺うにはうってつけだった。挿し込まれた点滴を引き抜き、包帯を剥がし、自然と手が秘所へと伸びる。休みなく自傷と自慰を繰り返す浅ましい躰を強制的に休ませる為、そんな言い訳を脳裏に描く度にセシルは自己を嘲笑した。あまりに白々しい言い訳を重ね、未だに奈落を彷徨う弱い自分がセシルは何よりも嫌いだった。  こうして再び気を失い、意識を取り戻すと滅茶苦茶に抉った傷も打ち捨てた点滴も綺麗に元に戻されていた。いつしか外の輝きも月光へと移り変わっている。自身へ注がれる栄養と薬剤の水滴を眺めていると、自然と頬に再び幾筋もの跡が付いていった。  男達から浴びせられたセシル自身を罵る言葉は今や真実だ。今の自分は何の価値も無い残滓に過ぎないと、何度直視したか分からない事実をセシルは再び噛みしめる。渇望していた春歌との再会が叶った日でさえ、男達から刻まれた呪いから抜け出すことが叶わなかった。  春歌は変わらずセシルを愛している。それを一目で理解出来たからこそ、浅ましく変貌した躰も精神を晒してしまった罪悪感にセシルはそのまま泣き喚いた。声無き叫びは誰にも届きはしない。それでも、だからこそ、後遺症と一人で戦い続けねばならないのは、あまりに辛い。そのような腐りきった性根が芽生えている自身をセシルは男達よりも、誰よりも、許せなかった。  セシルが日に日に弱っていく理由、短くない病院生活の中で最早それは公然の秘密だった。見れば嫌でも理解出来てしまう程歪められ貶められた躰、他者への尋常ではない恐怖を抱いたその様子から、憶測であらゆる噂が囁かれた。そしてその推定は概ね的中していた。  無論、年端もいかない少年を襲った悲劇を好んで口に出そうとするものは殆ど存在しなかった。だが極一部の醜悪な心根の持ち主たちによって、揺るぎない成功者へ降りかかった不運は蜜の味同然に消費されていた。その光景は悲しい程に、セシルの未来を食い潰した男達の姿に酷似していた。 「セシルさんがどうしたんですか」  春歌が声をかけた瞬間、集合していた人々の顔は引き攣り適当なことを喋りながら散っていく。だが彼らが何を話していたのかは、春歌の耳にしっかりと届いていた。語られる聞くに堪えない内容を認識した時、全身から怒りで血の気が引くのを春歌は感じた。  そのまま動けずに春歌は病院の廊下に立ち尽くす。足が根を下ろしたように動かなかった。到底許せなかった。世界で一番愛している存在が底知れない悪意で踏み躙られたことも、それを楽し気に語る人々の存在も。ただの噂だと思いたかったが、セシルと共に行方不明となっていたTVクルー達の所在や事務所の対応、そして何よりセシルに刻み込まれていた傷がそれが紛れも無い真実だと示している。セシルが声を喪った理由、春歌を拒む理由、それらは全て繋がっていた。あれ以来セシルは春歌との面会を拒み続けている。表面上は普段通りに春歌はセシルへの花束を病院へと預けた。そしてそのまま踵を返すと寮へと戻った。足は自然と早まり、人込みを掻き分けて一心に走る。バスを駆け下り自室に飛び込むと鞄を降ろすのももどかしく、春歌はピアノへと向かっていた。 「わたしが出来ることはこれしかないけれど」  幾度も思い描いた愛しい面影が溢れ出す。光り輝く舞台で想いを振り絞って高らかに歌う姿。彼女が最も愛している情景。それを紡ぐように一音、一音練り直していく。怒りよりも何よりもセシルへの想いが春歌の心を占めていた。彼らのことを許す気など全く無いが、今の過程にそんな感情は邪魔でしかない。それよりも考えるべきことは無数に在った。  一つのフレーズが浮かぶ度、昨日のことのように鮮明にセシルと交わした思い出が走馬灯のように浮かんでいく。  一時の絶望、抱き留めた温もり、優しい笑顔、異国の景色、愛が込められた美しい歌声。  いつかセシルが春歌に告げたことがある。作り手が想いを込めるからこそ、自分も愛を注げるのだと。ならば今春歌が託すべき想いはただ一つだった。 「……もう一度、ステージであの人に会いたいから」  そうしているうちに半年が過ぎた。未だにセシルは露が消えるように静かに衰弱し続けている。春歌は物言わぬ扉の前に佇む日々が続いていた。自ら扉を開けるような真似だけは決してしなかった。そしてセシルも決して扉を開かなかった。扉一枚より分厚くそして何より痛ましい決意の壁が彼等には立ちはだかっていた。  そんなある日、看護師はセシルにいつもの通り春歌からの届けに病室へと向かっていた。セシルは春歌から届けられる花束も、手紙も全て断っていた。普段であれば、看護師はそのまま春歌の元へと戻り花束を返す筈だった。過去に預けたまま帰った時が一度だけあったが、それ以外であれば春歌はセシルの反応を静かに部屋の外で待っている。だが今日だけは春歌はすぐに帰り、看護師が手に持っているものも違っていた。 「これだけはどうしても受け取ってほしい、と仰っていました」  セシルのベッドの脇に置かれたものは一枚のCDと楽譜だった。その時セシルの肩が僅かに震える。 「今すぐじゃなくても構わない、でも必ず聞いてほしいと随分念押しされていました。どうしますか?此方で暫く預かっておくことも出来ますよ」 「……」  セシルが受け取ったのを見て、看護師は安堵したように息を吐くとお大事にと告げて部屋を出た。そのまま日が傾くまでセシルはCDと眺めていた。だが意を決したようにプレイヤーに差し込むとイヤホンを付けた。花よりも手紙よりもセシルと春歌を強く結びつけてきたものは歌だ。自分が今後どうするにしろ、春歌が渡した想いの結晶に向き合わないのは真摯ではない、そう言い訳しながらセシルは身を震わせて耳を傾けた。  内容は楽譜を見ただけで分かっていた。性を穢され貶められる前の晩まで、何度も聞き返し歌詞を考えていた未完の曲。ただ、セシルが渡されたものとはアレンジが僅かに異なっている。一音が鼓膜を震わせる度に真摯な想いが胸を突いた。たった一人への愛に満ち溢れた美しい旋律、自らに付けられた重荷が洗い流されていくような感覚があった。そこに在るのはただ再会を待ち望む祈り。久しく感じていなかった自身へと向けられる純粋な想いだった。 「あ……い、たい……」  酷い嗄れ声が空気を震わせる。セシルは自ら驚愕し思わず口を塞いだ。それが自身の声だと自覚するまで間があった。胃酸で滅茶苦茶に焼け焦げた喉から無意識的に紡がれた気持ち。たまらずセシルは再生を止めた。途端に自責の念が溢れ出す。これ程までに美しい想いが、自分が触れたことで穢されたとセシルは思っていた。確かに声は出た。だから何だとセシルは自身に必死になって言い聞かせた。思わず口走った思いは決して抱いてはならないと決めた筈だったものだ。春歌の気持ちは痛い程伝わった。だからこそ、その純粋さと穢されたセシル自身との対比に気が狂いそうになる。両手で自らの頭を掴むとセシルは項垂れた。  自分が汚濁へと倒れ込んだ悍ましい感覚が鮮明に蘇る。全身に吐瀉物と精液が染みわたり、穢されていく感覚。男達の快哉と春歌の曲が煩い程に鳴り響く。愛しい姿、汚濁としての自分。夢と現の境が滲んでいく。 「うあぁああああ゛!」  セシルは悲鳴を上げて倒れ伏し、そのまま嗚咽を漏らした。血相を変えた医師が部屋に飛び込んできたのが薄らと見えた時、セシルの意識は途切れた。  そのまま長く悲しい夢を見た。気が付いた時には右手がやけに暖かく、そしてセシルを何度も呼ぶ声がしていた。おぼろげながら目を開くと、大きな瞳に涙を一杯に溜めた春歌がセシルを覗き込んでいた。きっとこれも幻覚なのだろう、とセシルは解釈した。随分と意識を失っていたのに春歌が此処にいる訳ないからだ。幻覚ならば溺れてしまっても問題ない筈、とセシルは握られた手に頬を摺り寄せた。もう辛くて、泣き出したくて堪らなかった。出来る事ならば、春歌にこの気持ちを受け止めてほしかった。 「ごめんなさい、ワタシを許して……」  幻覚に甘えて身勝手なことを、とセシルは自嘲気味に笑った。それでもセシルは与えられた愛情を守り切れずに身を堕とした申し訳なさに引き裂かれそうだった。零れ堕ちるように謝罪ばかりが口から溢れ出す。 「許すだなんて……そんな……」  春歌は困ったように眉を寄せた。どうやら先に続ける言葉が思い浮かばなかったかのようにセシルには見えた。額に柔らかな唇が触れる。桜色の髪が頬を擽り、セシルは息だけで微笑んだ。その口づけは刻まれた罪を浄化する儀式のように思えた。穏やかな空気が病室に満ちる。 「もう時間です。……おやすみなさい」 「おやすみなさい」  重い瞼そのままにセシルは目を閉じた。久方ぶりの優しい眠りだった。  それからセシルは少しずつ、噛みしめるように曲を聞いていった。少し聞けばまたすぐにイヤホンを引き抜き、しまい込む。それでもまた引き寄せられるように音楽に耳を傾けていた。曲を聞く度に自分が以前に戻ったような活力が溢れ、すぐに現実へと叩き落される。変貌したセシル自身と曲との落差に頭がおかしくなりそうだった。涙など何度流し、胃液を吐き戻したか分からない。監禁されていた時と変わらない感触に幻覚を見て、縋るように曲を聞き直すことも数えきれない程あった。何故自分は助かってしまったのかとセシルは自問し続ける。酷く苦しかった。いっそあの場で何も分からず死んでいた方が余程救いだったとまで思いかけて、激しく自分を責めた。焦げ付くような情念が身を焼く。それでも生き残ってしまったならば果たさなければならないことが山のようにあるのだと、そこまで考えまだ生きようと考えることが出来るのかと再び自嘲する。セシルは回復していく自身を責め、回復出来ない自身もまた責めていた。  病院側も尋常ではないセシルの様子を見て、CDを取り上げようとまで考えた。だが、その試みが実行に移されようとする度に、セシルはそれを拒んでいた。  幾度目かの気絶する様に眠りに落ちた日の夜、セシルの名を呼ぶ声が彼の耳に届いた。  未だセシルを苛み続けている幻覚の男達の声ではない。目をあけると既に何カ月も居る慣れ親しんだ病室の天井が見える。周囲を見渡しても誰もいない筈だったが、この日は違っていた。扉に付いた硝子窓に、黒々とシルエットが浮かび上がっている。  それが誰のものか分からない訳がなかった。 「……開けてもいいですか」 「駄目です」  胃液の酸で焼かれ続けた声は酷い有様だった。それでも春歌はセシルの声だと理解したらしく、息を呑む音が聞こえるかのようだった。 「春歌の気持ちは分かっています。それに……報いることが出来ない弱いワタシでごめんなさい」 「待ってください。セシルさんはそんな」 「春歌、もうワタシのことは忘れてください。……曲、聞きました。本当に素晴らしかった アナタの才能をこんな所で埋もれさせないで」  誰か他の人を、とセシルが続けようとした時、春歌は部屋へと飛び込んだ。月光に満たされた蒼い部屋の中でセシルは静かに横たわっていた。手には指が白む程力を込めてCDが握られている。 「嫌です! この曲はセシルさんのものです」  ここまでの激情に駆られている春歌をセシルは見たことがない。大きな瞳は潤んでいたが、それ以上に強い意志がセシルを射抜こうとしていた。出会った時と何一つ変わることなく彼女は美しかった。それに対峙することに耐えられず、セシルは目を背けた。 「ワタシが何をされたか知っていますか」 「……気づいています。でも」 「他の男の精液を被った躰がそんなに好きですか」  思わず口走ってしまった言葉は信じられない程に醜悪だった。それでも言葉を続けるのとセシルは止められない。 「そんな躰で春歌の曲を奏でろというのですか」 「そうです」  間髪入れず与えられた回答にセシルは半ば茫然として顔を上げた。春歌自身、自分が咄嗟に言い放った言葉に困惑しているように見えた。だが、すぐに彼女は自らの意志で言葉を紡ぎ始めた。 「……我儘でごめんなさい。セシルさんに嫌って思われても、わたしが聞きたいんです。作りたいんです。セシルさん以外に曲を作るなんて今のわたしには考えられないんです。セシルさんじゃなきゃ駄目なんです!」 「春歌……」 「本当にごめんなさい。でも、いつまでも待ってます。誰が何と言おうとわたしの気持ちは変わりません。誰よりも、何よりも、あなたを愛し続けます」  春歌はそれだけ言い残すと深々と頭を下げ、部屋を出た。春歌の想いはセシルが曲から感じ取ったそのままだった。セシルは再び慣れた手つきで曲を再生した。  劣情の絡まない人の温もりが全身を包んでいくように感じられていく。布団に落ちた滴の数だけ彼女の想いがセシルの心に満ちていった。春歌を守る為に生きている筈だったのにいつも救われてばかりだと考えてしまう。  こんな自分でもまた以前のように変われるのだろうか、そう考えてセシルは自嘲した。そう考えている時点で変わりたいと願ってしまっているのだ。躰に刻まれた無数の傷跡がセシルを睨む。一つ一つの激痛が今でも鮮明に感じられる。春歌の言葉を命綱にしてセシルは息を繋いでいた。この暗闇に身を投げれたら楽に決まっている。春歌の願いは非常に残酷だ。それでも叶えたいのだ。春歌も、セシルも。  腐りきったこの身をもう一度輝かせられるか。そんな幸福な夢を彼女の旋律は鮮やかに描き出していた。

セシ春がお清めするならやはり音楽だろう、と。

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