変身

 頭が割れるように痛む。酷い耳鳴りが聞こえ、その合間を縫うようにして男の引き攣った笑い声がセシルまで届いた。瞼も、手足も鉛のように重い。精一杯動こうとしても、僅かに呻くことしか出来なかった。何故こんな事態になっているのか、セシルは必死に記憶を辿る。  やや遠いスタジオでの仕事が終わり、セシルは日が暮れかけた通りを歩いていた筈だった。春も近いとはいえ、この薄暗い路地は未だ真冬の冷気を残しているかのように寒く、セシルはストールをややきつめに巻き直す。辺りに人の姿も無い。大通りを目指して少し足を速めようとした時、突然目の前に男が立ち塞がった。 「……!?」 「セシル君……愛島、セシルさん、ですよね?」  息を切らせて走ったらしいその男は荒い息を吐く。比較的長身のセシルでも見上げるような巨体には大粒の汗が浮き上がっていた。男のトレーナーに印刷されている美少女キャラクターが、膨らんだ腹で異様に引き延ばされ不気味な形相を見せている。男の小さな目は分厚い眼鏡の奥で興奮と混乱に爛々と輝いていた。その様子からファンの一人だと理解したセシルは、咄嗟に浮かんだ動揺をすぐさま覆い隠した。 「はい、ワタシは愛島セシルです。こんにちは」 「やっぱりそうだったんだ! 嬉しい……まさかもう、こんな所で会えるなんて…………神様っているんだなぁ……。あっ、すみません、忙しいですよね! あの、サインとっそれが無理なら握手だけでもお願いしていいですか?」 「ええ。両方とも大丈夫です。サインは何にすればいいですか?」  それを聞いた男はつんざくような悲鳴を上げ、セシルは耳を押さえそうになるのを寸前で堪えた。このようなファンは稀にいると聞いていたものの、セシルは浮かべている笑みが引き攣ってはいないか、やや不安に感じていた。だが男はそんなセシルを気にも留めずに小声で何か言いながら自身のリュックを漁っている。日は更に陰り、彩度が落ちていく通りの中で、セシルは理由の無い不安が湧き上がるのを感じていた。 「あの……」 「あった! ごめんね待たせて! じゃあまずは握手から……」 「はい、いつもありがとうございま、すっ!?」  差し出した手を男は強く掴み、自身の元へと引き寄せた。急に手を引かれ、蹌踉けたセシルを男は片腕でしっかりと抱き留めた。 「やっと手に入れた……僕のだ! もう二度と離さない、離すもんか……」 「ちょっと、離してっ……離せ!」  重心を掛けて男の腕をセシルが振り解こうとしたその時、男はリュックに入れていた手を取り出すと、そのままセシルの口元を押さえ込む。強いアルコールに似た香りがセシルの鼻孔を満たした。最早形振り構っている余裕など無い。セシルは死に物狂いで暴れるが、男との体格差は大きく、押し掛かる体重に崩れないようにするだけで精一杯だった。漸く左腕を抜き出し、セシルは全力で男のこめかみを殴りつける。呻いた男は思わずセシルから手を離した。男の眼鏡がアスファルトに落ちて乾いた音を立てる。急いで足を踏み出した瞬間、セシルも地面へと崩れ落ちた。 「……っ!」  幾ら立ち上がろうと藻掻いても無駄だった。躰に力を込めようとして、何もかも霧散していく。男は深いため息を吐くと、セシルの肩めがけて足を踏み下ろした。そのまま体重が掛けられ、セシルは鈍くなる感覚の中でも刺すような痛みを感じていた。男の手が近づき、再び口元が覆われる。また強い薬の香りがした。しかし、もう抵抗する手段は残されていない。 「薬って効くまでに結構ラグあるんだね……あ~危なかった。というかセシル君、強く殴り過ぎだよ。痛かったなぁ……」  男のぼやく声と口元を歪めた笑みが残像のように残る。困惑と痛みが強く刻みつけられる中で、セシルの意識は遠のいていった。  ――全てを思い出した所で状況の打破には繋がりそうもなかった。周囲を見渡そうとしても、視線が動かせる範囲は酷く狭い。どこかの屋内ということしか分からなかった。その時には他人の手が我が物顔でセシルの躰を這っていた。その手の持ち主はあの男だと考えて間違いない。肩、腕、胸、腰と流れていく手の動きはまるでセシルの存在を確認しているかのようだった。暫く彷徨った手は意を決したように上着を引く。男はセシルの躰を抱えて両腕を上着から引き抜かせた。そのまま上着を放り、男がシャツへと指を掛ける。 「アナタは、何を……?」 「あっ、起きた」  漸く絞り出した声で、男はセシルが目覚めたことに気づいた。 「……よかった、薬はまだ効いてるんだね。セシル君に暴れられたら普通に僕負けちゃうからさぁ。辛いだろうけど暫く大人しくしててね」  頬を撫でられる節くれ立った指の感触が不快で、セシルは眉間に皺を寄せた。だが、そんな反応を見ても、男はまるで玩具を貰った子供のような笑みを崩さなかった。そのまま男はセシルのシャツを掴むと、強引に持ち上げていく。 「折角意識戻ったんだから万歳して協力して貰える?……ああ、それも無理か。じゃあ僕が頑張るからいいよ。ごめんね」  ブツブツと呟きながら男はセシルの腕を引き、強引にシャツを脱がせていった。動けない躰を無理に振り回される感覚にセシルは呻く。この時点でセシルは男の目的を察し始めていた。これからどうなるのか、考えるだけで寒気がした。急く気持ちとは裏腹に躰は何も応えようとしない。脱がせた肌着を男は顔に当て、深呼吸を繰り返している。何か早口で呟き続けているのを、セシルは聞かないようにすることが精一杯だった。指の隙間から覗く男の目は更に強く狂気めいた光を放っている。躰に冷たい汗が伝っていく感触だけがセシルにはやけに鮮明に感じられた。 「嫌っ! 今ならまだ間に合います! やめなさい!」  ベルトに手を掛けられた瞬間、セシルは思わず叫んだ。これから具体的に何をされるのか想像は出来なくとも、何か取り返しの付かなくなるような事態が間近に迫っていることだけは克明に感じられた。男はそんなセシルの訴えに、可愛いね、とだけ口にした。 「本当にさぁ、駄目だよセシル君……こんな勘違いした格好してたら……。やっと君にふさわしい姿にしてあげられるんだ……まさかこうやって会えるなんて…………神様って見てるんだなぁ…………」  スラックスの裾を引きながら男が話す内容をセシルは理解することを拒否した。話が通じない相手だという事実だけが胸にのし掛かる。状況が明らかになるほど、事態は深刻化していった。スラックスが下がるのに巻き込まれ、中途半端に下着が脱げる。露わになった膚を男は半笑いを浮かべてつついた。 「思ってたよりセシル君ってちょっとムチムチしてるんだねぇ。入るかなぁ……」  そう言いながら男は紙袋から服を取り出していく。 「何ですか、それ」  セシルは今にも声が震えそうになるのを必死で抑える。男が何をしたいのか皆目理解出来なかった。セシルの目の前に広げられたのは丈の異様に短いメイド服だった。 「安心してね。君をもっと可愛くしてあげるから」  スカートが広げられ厚い布が視界を覆っていく間、セシルは僅かな力を掻き集め必死に身を捩った。だが、そんな抵抗など一笑に付されるだけだ。緩慢にしか動かない腕は掴まれ、強引に袖が通されていく。狭い布の中に閉じ込められるにつれて、セシルは自身が如何に無力なのかと突きつけられるような気さえしていた。 「うん! やっぱりセシル君は凄く可愛いね。でもちょっと服小さかったなぁ……」  セシルは身を捩り、男の伸ばした手を振り払った。僅かに動かすだけでも無理に収められた肩が軋む。幅に合わない布が今にも裂けそうに張った。柔らかな提灯袖から伸びる腕はがっしりとした筋肉で覆われており、堅い腿がレースのスカートから覗く。ただ愛らしいだけの衣装と相容れない躰。だが、その光景を前にして男は感嘆していた。 「思ってた通りだ……。本当、すっごく可愛いよ。ちょっと筋肉付きすぎだけどさ、これからもう少し落としてお淑やかな体になろうね」 「触らないでっ! 気持ち悪い……!」 「はいはい……。あっ、セシル君って肌はすべすべで可愛いんだね。合格」  男はセシルの脹ら脛に手を伸ばすと、そのまま上へと伝っていく。太い指が這う感触にセシルの顔からは血の気が失われていった。男は滑らかな膚の感触を楽しみながら、白いニーハイソックスを取り出すとセシルの爪先に宛がう。男の体温がセシルの全身を包んだ。背後から抱き締めるようにしてニーハイソックスが引き上げられていく。白と褐色の鮮明なコントラストが男の目を灼いた。セシルは男が自分に何を求めてるのか理解出来ずにいた。ただ男の異常な性癖の餌食にされている自覚だけが彼の自尊心を傷付け、羞恥心を煽る。 「ハイ! これが一番大事だからね」 「……ッ!?」  男が取り出したカチューシャを見た瞬間、セシルの目が見開かれた。黒い猫耳が付けられた其れが自身に触れようとした時、セシルは重い頭を振って拒む。 「やめなさい! 嫌だっ、ワタシは猫ではない!」 「なんかやけに怒るねぇ。照れてるの? でも今日からセシル君は僕のモノなんだから、言うこと聞かなきゃダメなんだよ」 「こんなっ……こんなもの…………っ!」  頭上に手を伸ばし男に嵌められたカチューシャを叩き落とした瞬間、セシルの頬に衝撃が走った。口内に僅かに染みる。思わず動きを止めたセシルへ男は再び拳を固め、勢いを付けて振り下ろした。何度も鈍い音が響き、それに合わせてセシルの呻き声が洩れる。 「ダメだって、言ってるだろ。折角、こんなに、可愛いんだから」  男の言葉に合わせる様に振り下ろされる拳から、セシルは逃れる術を持たない。床へと倒れ込んだセシルの腹へと男は座り込んだ。 「ゲエッ!?」 「変な声出さないでくれる? 萎えるわ」  男の足に挟まれ、身動きが取れないセシルに再びカチューシャが嵌められる。首元へも手が伸ばされ、軽い音を鳴らして鈴の付いた首輪が締まった。喉が締め付けられ、息が詰まる。のし掛かったまま男は強引に体の向きを変えると、スカートの内部へと手を滑らせた。半ば脱げかけていた下着が掴まれ、擦り下げられていく。その感触にセシルは脚を暴れさせるが、動けない躰と不利な体勢ではどうにも出来なかった。 「返せっ!」  男はセシルの声など最初から存在しないかのように、手にした下着を事も無げに放った。漸く立ち上がり、セシルから降りた男は床に横たわるその姿を舐めるように眺める。セシルは少しだけ自由を取り戻した躰を丸めて荒い息を吐いていた。男を見上げる眼差しには怒りが滲む。だが、それは身を包む愛らしい服との違和感と哀愁を掻き立てる要素にしかならなかった。唇を歪めた男はセシルのスカートを指先で弄ぶ。 「やっぱり可愛いなぁ……このチラチラ見える内腿がさぁ、良いんだよね。セシル君絶対似合うって思ってたよ」 「は……?」  男の目線に含まれる感情に触れるだけで不快感が弾ける。充足と劣情が滲む男の表情を視界に入れるだけでも、セシルは拒絶感を抑えられなかった。 「ほら、可愛いメイドちゃん。ご主人様の性欲処理でもしてごらんよ」  男の伸ばした手を、セシルは爪を立てて払いのけた。思わず眉を顰める男を軽蔑しきった眼差しが睨む。 「ワタシはアナタの召使いではない。抑もそんなことをさせるアナタは、主人として立つ資格などありません」 「こいつ……っ! うるさいなぁ! お前の基準なんか聞いてないんだよ!」  男はセシルの腰を押さえ込むと、強引にスカートを捲り上げる。咄嗟に庇おうとセシルは手を伸ばし、そんな状況へ置かれている屈辱を痛烈に感じた。羞恥に赤みが差した頬を見て、男の興奮は更に増していく。自身の仕草で欲情している男の顔はセシルの苛立ちを煽った。 「ほら見て。これはセシル君の尻尾だよ。可愛いでしょ」  見せつけるように眼前へと差し出されたのは、黒い尾の付いたプラグだった。確かな質量を持つ其れが何に使われるか分からないほど、セシルは子供ではない。僅かに垣間見える恐怖の表情を眺める優越感。それは男を満足させるには充分だった。 「これで可愛い猫ちゃんメイドの完成だよ! しっかり感じて、理解しろよ! もうお前は、僕のなんだよ!」 「嫌あ゛っ!」  強引に押し込まれた感触とそれに伴う激痛にセシルは歯を噛み締めて耐える。男はセシルの躰を慮ることなく、己の欲望のままに手を動かした。無理に広げられ、血の臭いが漂う。抜き挿しをされる度に、獣の尾が無様に揺れた。 「よくも、こんなっあ゛あぁ!」 「まだちょっと痛いのかな? でも大丈夫だよ。セシル君はエッチな雌猫なんだから、きっとすぐ気持ちよくなれるからね」  男はセシルを強く抱き締めたまま、頬にキスを落とした。薬と肉体的な拘束に絡め取られた躰は暴れて衝撃を逃すことさえ許されない。身を切り裂かれる痛みが絶え間なくセシルを襲った。男は片手でプラグを握ったまま、セシルの陰茎に触れると粗雑に擦り上げていく。だがこのような状況で快感など得られる筈もなく、過敏な粘膜に触れられる痛みが加わるだけだった。萎えているセシルの其れとは裏腹に、セシルの腰には男の勃ち上がった部位の熱が嫌になるほど伝わっている。痛みと気色悪さでセシルは混乱する精神を抑え込み、悲鳴を噛み殺すので精一杯だった。 「思ってた通りだ……凄く可愛いよ………最高……これからもっと、もっと、もっと可愛がって本当に僕だけの猫ちゃんにしてあげるね…………」  男の狂気に満ちた瞳がセシルを射貫いた。爛々と輝く異様にセシルは初めて全身の膚が粟立つような恐怖を感じた。今はまだ最悪の始まりに過ぎないという絶望的な予感が沸き上がる。男は床に放られていたスマホを拾い上げると、セシルに向けてシャッターを切る。耳障りな嗤い声が響き、男は誇らしげにセシルへと画面を向けた。  その時セシルは初めて、自身の姿を正面から見据えた。忌まわしい耳、愛らしい服へ包まれた滑稽な躰、付け根から絶え間なく血を流す尾。そこに写っていたのは、無力な一匹の猫に過ぎなかった。

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