事の起こり

 必要ありません、と告げた声は朗らかさまで含んでいた。言葉が続かなかった私に、彼は変わらぬ微笑みを向ける。だが、その目には軽蔑だけがはっきりと残っているのだった。  私がセシルに出会ったのはあるパーティ会場だった。小さな音楽番組のスポンサー企業で権力を握っていた私は、番組の親睦会に参加していた。其処に居たのが、当時番組のレギュラーだった愛島セシルだ。その時私は彼のことを知らなかったのだが、それでも彼が芸能人であることはすぐに分かった。それは整った顔立ちやスタイルだけのせいではなく、選ばれた人間が纏うべきオーラとでも言うものが彼の周りに漂っていたからだ。まだ駆け出しの身と知った時は随分驚いたものだ。だからこそ、私の力で彼の人気を盛り立ててもやれることを嬉しく思った。こんなパーティまで開かれるほどの仕事に参加することは初めてだろうに、セシルは妙に場慣れした様子で客の間を生き生きと飛び回っていた。誰もが彼に目を惹かれた。番組の親睦会という名目こそあったが、本当の主役は彼だったことに異論を挟む者は居ないだろう。  私は壁の花として目立たないように酒を傾けながら、じっくりとセシルを観察していた。当初の目的は司会の女性タレントだったが、また別の機会にするつもりでいた。あの特異さを見逃す訳にはいかない。人を惹き付けて止まない愛らしさの中に潜む、他者と一線を画す気品。不揃いな成熟と未熟の対比が非常に興味深かった。耳慣れない国の出身者であることもまた未知への探究心を煽られる。彼ならば私の力で多少盛り立てても文句を垂れる者はいないだろう。好みからは外れるが、たまには異国の珍味も悪くない。  そう決断した時、丁度セシルは私の元へとやってきた。番組プロデューサーから私の立場を聞かされているらしい。敬意を払った応対に、ますます私は気分を良くした。身の程を弁えている人間は嫌いではない。会が終わり、散っていく人々に紛れて私はそれとなくセシルの元へ近づいた。  もう少し君と話したい、そう告げた時にセシルの表情に過ったのは若干の困惑だった。なるほど、慣れているのはここまでという訳だ。そんな若者と相対するなど赤子の手を捻るようなものの筈だった。しかし、そこから彼は異様な粘りを見せ始めた。それとなく私の権威を示してもその意図を解しない。伸ばした手は手はすぐさま振り払われる。歩幅を合わせようともしない。  弱小事務所の女性相手ならば無理に車に連れ込むことも出来ただろうが、青年を引き摺る体力は最早私に無かった。だがアイドル風情に私がここまで素気無く扱われる謂れなどある筈がない。声をかけられて意を決する姿を眺めることで、私は何よりの愉悦を得るのだ。その楽しみを正面から踏み躙るセシルに私は苛立ちを募らせた。聡明に見えた印象は気のせいだったらしい。 「ねぇ。これは君の為でもあるんだよ。私なら幾らでも愛島君に協力してあげられる。君が人気になったら喜んでくれる人もいるだろう?」  そう言った時、半ば駆け出していたセシルの脚が止まった。カマをかけたのが正解だったらしい。私のプライドはそれなりに傷付いていたので、もう優しくしてやるつもりは無いが。セシルがゆっくりと此方へ振り向く。周囲には誰も居らず、広い会場には私達だけだった。  そして告げられたのが、あの言葉という訳だ。私は呆れて何も言えなかった。この私を相手にしてここまで抵抗した人間など初めてだった。それだけではない。セシルが私を見た瞬間の瞳! あれは人を見る目では無い。これほどの侮辱を受けたのは久しぶりだった。高々珍味の分際で私に楯突くなど、有り得なかった。  ……吐き気がする。踵を返した後姿を私はしっかりと目に焼き付けていた。

元々長編の冒頭として書こうとしていたもの。

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