混沌に沈む

壊された日常

 それからセシルの日常は二極化の一途を辿った。様々な仕事で細切れにされていた筈のスケジュールは混沌とした意識の中で溶けていく。中和など既に無意味と化しつつあった。何気ない一瞬で手が震え、躰のバランスが崩れる。簡単な台詞一つでさえも覚えることは困難を極めた。当然ながら撮影でセシルがNGを出す回数は飛躍的に上昇していく。全身が常に発熱しているかのように怠くて仕方がなかった。  だが、病院で一度薬を使われると全ての不調は彼方に吹き飛ぶ。その代わりに与えられるのは何よりも甘美な感覚だった。不安も、恐怖も、日に日に悪くなる現状も、何もかも消えていく。セシルは絶頂を迎える度に正気を捨てているような気がしてならなかった。だがそれに対する疑問を抱く余裕など持てる筈もない。ただ使われていれば、愛されていればいい。そう何度も囁かれ続ける。  最早ホテルだけがセシルに残された居場所だった。もう何もごまかしきれない。撮影所のスタッフから向けられる眼差しは冷たくなる一方だった。共演者達がセシルに声を掛けることはほとんどない。傍から見ればセシルが仕事に集中出来ていないのは一目瞭然だった。セシルが追い出されていないのは、既に撮影が終盤であることと、そして何よりプロデューサーである男が巧みに手を回しているからに過ぎない。  セシルは暗い部屋で一人、自身が受けた暴行の恐ろしさに怯えながら、中和されない副作用に苦しみ続けていた。重病にも似た体調不良と未だに収まることのない性欲、霧散していく思考、数え上げれば切りがない。ぼやける意識で必死に解決の糸口を探して、どう足掻いても逃れられないという事実に行き着く。何より恐ろしいのは男達の所に行く時間を自身が薄々待ち望んでいるのかもしれないという事実だった。逢瀬を重ね続けるうちに、弱みを握られているから行くのか、それともこの苦しみを忘れたくて行くのか、区別出来なくなりつつあった。  もう自身が手遅れになりつつあるとセシルは理解している。だがそれを素直に認めることは、今後の人生への希望を全て捨てることと同義なのだ。  そんなセシルの現状を男達は彼以上に理解していた。診察室の扉を開ける度に濁っていく瞳を彼等はまるで装飾品を愛でるように眺める。己の欲を擦り付けた結果として美しく育まれた存在が崩壊する皮肉に男は愉悦を感じ、医者は自ら用意した薬品でその肉体と精神を嬲り尽くし歪めていく過程を特に好んでいた。 「もうセシル君はお薬もセックスも僕達も全部大好きだものね。今日も楽しもうか」 「ち、がうぅ……だめ……すきになっ……は…………ダメだから゛ぁ……♡」  医者が鼻歌交じりに薬液を注射すると、泣き声じみた嬌声が響く。  それに対してもう何かを感じる余裕もなかった。今まで積み上げてきたものを一つ一つ取り上げられて、丹念に壊されているかのような時間が続く。セシルは自身が何故耐えているのか目的を見失いつつあった。この町に来るまでの記憶が遙か彼方のことのように感じられる。  心がどれほど望んでも全ては遠い影のような形でしか思い出せなかった。最近は気がつけば撮影が終わっている日も少なくない。何もかもはっきりしない意識の中で、躰の疼きだけは鮮明だった。
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