夜が明けても、共に在る

 ハロウィンが明日に迫った日のことだった。森の傍らにあるその村ではハロウィンが近づくと人々は黒衣を身に纏う。死者達と交わり、亡き人に思いを馳せる為の喪服、ということだ。  だからこそ、この時期の余所者は分かりやすい。村人達の視線は狩人の少女に吸い寄せられていた。白木の弓を背負い、薄い革の防寒具を身に付けた彼女は春歌と名乗り、村人達に近くの森に住むという幻想獣の話を聞いて回っていた。  だが、村人達の多くは彼女の話を真剣に聞くことはなかった。幻想獣は村人達にとっては所詮お伽噺に過ぎないのだ。春歌がまともに話を聞けたのは、村の長老である老女ただ一人だった。慣習に従って黒いヴェールを纏っているその老女は、春歌の噂を聞いていたらしい。春歌が口を開く前に、独り言のような低い声で語り始めた。 「あの森には確かに幻想獣はおる」 「まぁ、本当ですか!」 「ああ……随分数は少なくなったが、ハロウィンの夜には間違いなく姿を見ることが出来るだろうよ。彼等はとても美しい獣で、知能も高く、人の魂に寄り添う」 「じゃあ伝説は本当なんですね! よかった……」 「だが……若い娘さん、気をつけた方がええ。彼等を怒らせて無事で帰ってきた者はおらん。ましてや見初められた者は……」 「大丈夫です。わたしは幻想獣に会いたいだけですから。それに、帰れなくても困る人はいません」 「お待ち。まだ話は……」 「貴重なお話をありがとうございました!」  呼びかける老人の声は、森へと夢中に駆けていく春歌には届かなかった。幻想獣が本当に森にいる、その事実を前にして彼女は冷静ではいられなかった。  しなやかな脚が地面を蹴る度、森は深くなっていく。燦々と差していた日の光は鬱蒼と茂る木々に遮られていった。それで良かった。幻想獣は夜を司る生き物だ。宵闇にも似た暗さに支配されていく森は、幻想獣の住処という伝説に信憑性を与えていた。 「どれくらい奥まで来たんだろう……」  人々が日常的に使っている道からも外れた場所まで進むと、藪や太い木の根が地上を覆い、走り進むことは難しくなった。満ちていた鳥の声も消え失せて、静寂が躰を包み込む。生えている夜光キノコだけが足下をぼんやりと照らしていた。辺りを覗っても、幻影獣どころか生き物が動く気配は無い。  その時、彼女の耳は音を捉えた。 「歌声……?」  生命の気配一つ無い場所に響く歌声。その旋律と独特な響きは彼女の心を捉えて放さなかった。その歌声は風が運んできたらしい。木の葉のざわめきと共に辺りに音が溢れていく。高低を自在に行き来する技術と、深い神秘性を持つ声に春歌は深い感動を覚えた。音楽に聴き惚れるという行為への懐かしさ、そしてどうしようもなく惹かれてしまう歌に胸が高鳴る。  だが、こんな場所で歌声など聞こえてくる筈が無い。獣の声の聞き違いか、それとも求めている幻想獣か、はたまた同業者の存在か、いずれにせよ明らかに警戒すべき異常事態だったが、何故か警戒などする必要が無いように春歌には思えて仕方がなかった。 「素敵…………でもなんだか、とっても眠そう」  ふふ、と溢れる笑みを抑えられないまま、春歌は声のする方へと足を進めた。辺りに満ちている歌声は美しいものだったが、時折小さなあくびや低い唸り声が混ざっている。 「子守歌なのかな? 自分自身に歌ってる……」  そう思うとどうしようもないおかしみと、そして寂しさを感じた。歌声の持ち主が誰なのかは分からないが、彼に子守歌を歌ってあげられる人はいない。だからこそ彼は自分に歌を捧げているのだろう。  そう考えているうちに、春歌の歩調は自然と早まった。強引に藪を抜けて、腰の高さまで盛り上がった木の根を乗り越える。そうまでしても彼女は歌声の主に会わなければならないような気がしていた。 「ふぁあ……誰です? ワタシの眠りを妨げるのは。ここはワタシの憩いの場所なのに」 「ああ、そこにいたんですね」  微笑む春歌に動揺は全くと言っていいほど無かった。彼女の視線は、木の上のひときわ深い闇の中にまっすぐ向けられている。そこには翡翠のように輝く一対の瞳が浮かんでいた。 「はじめまして、勇敢なお嬢さん」  ふわりと飛び降りてきたのは美しい青年だった。異国めいた端正な顔立ちの中心では翠の瞳が夢のように輝いている。しなやかな肉体は豪奢な衣服で飾り立てられ、王族にも似た気品を漂わせていた。だが、頭部にある獣の耳が、彼が人ならざる存在であることを示している。 「わたし、狩人の春歌です。この森で幻想獣を探していて、何かご存じないですか?」 「幻想獣……? その在処をワタシに聞くのですか。ふふっ」  青年が呆れたように笑う理由が分からず、春歌は二、三度目を瞬かせた。青年は気にするなと言いたげに首を振ると言葉を続けた。 「ワタシはセシル。この森に住む……そうですね、妖精とでも思っていてください。アナタは狩人なのですね。こんなに可愛らしいのに」 「可愛らしいなんて、そんな……」 「女性の、それも若い狩人なんてとても珍しい。何故、幻想獣を探しているのですか? 仕留めるつもりなら、そんな弓と細腕だけでは難しいですよ」  そう言いながらセシルは僅かに目を細めた。探している幻想獣を前にしながら、それに気づかない呑気な少女をどうすべきかと考える。  幻想獣を求めてこの森に人間が立ち入るのは、別に彼女が初めてではない。大抵の人間達は捕まえて見世物にしようと考えたり、何やら怪しい研究の対象にしようとしたり、単なる肝試しだったりとまともな者はいなかった。彼女もおそらくその類いだろうと、セシルはやや冷ややかな態度を崩さないまま答えを待った。 「お友達になりたくて……」 「トモダチ?」  「はい! 会ってお友達になれたら素敵だろうなって」  微笑んで頷く春歌を前にして、今度はセシルが目を瞬かせる番だった。彼女の言葉に嘘は感じられない。驚きと同時に、セシルは春歌の純粋さに興味を持った。目の前に佇む彼女には、近々決められるハロウィンの花嫁になる素質がある。そんな確信にも似た思いがセシルを貫いた。 「幻想獣を狩るのではなく友達になるなんて初めて聞きました。アナタの旅路に幸福が降り注ぐように願っています。……でも気をつけて」  セシルが春歌の方へ足を進める度に、落ち葉が喧しく音を立てた。その雑音に埋もれることなく、声は春歌の元へはっきりと届く。 「ハロウィンの夜が近づいています。アナタのように純粋無垢な人はとても魅力的。この森の住人達にとっては宝石のようなものなのです。きっとみんなが欲しがるでしょう」 「みんなって……幻想獣もですか?」 「幻想獣だけではありません。妖精や猛獣、幽霊、怪物……この森にはアナタが想像も付かない存在がたくさん潜んでいるのです。とても危ない」 「それは大変ですね、気をつけないと」  春歌は弓をしっかりと握り直して辺りを見渡していた。その素直さこそ、セシルの指す純粋さだと彼女はよく理解していなかった。 「森はワタシの家のようなもの。よければハロウィンの夜まで、ワタシがかくまってあげましょうか?」 「えっ……でも。いいんでしょうか?」  セシルは笑顔で頷くと、春歌の目の前へ手を差し出した。危険な者が多く潜む森で、目の前の彼も危険ではない保証など無い。それは春歌も理解していた。だが、それでも彼女はセシルを疑う気にはなれなかった。森に響いていた歌声を思い出す。そこには誰かを求める切実さが込められているように感じられた。そんな想いを抱いているセシルを放っておくことは春歌にはどうしても出来なかった。そっと握った手は思っていたよりも温かかった。  それに僅かに安堵すると同時に、不思議な浮遊感が春歌を包む。足下を見ると地面からつま先が離れていた。 「……わぁっ!」 「大丈夫。しっかり掴まって」  春歌はその声に応えてセシルの手をより強く掴むと、顔を輝かせて彼を見た。そこには恐怖や怯えなどは無く、未知への好奇心と興奮で満ちている。その表情を見たセシルは僅かに目を見開いた。今まで見かけた人間達は誰一人こんな希望に満ちあふれた表情などしていなかった。そんな顔を正面から見ることが出来ずに、セシルは森へと視線を戻した。二人はそのまま木々の間を縫うようにして宙を舞う。 「すごい! 本当にすごいです! セシルさんの力なんですか?」 「そうですね。ちょっとした魔法のようなものです」 「素敵……! 魔法って本当にあるんですね!」 「驚くのはまだ早いですよ。夜までまだ時間があるから、この森の素敵な場所をたくさん案内してあげる。素晴らしいものが見られるはずです」  セシルは喉を鳴らすようにして笑うと春歌の手を引いたまま、風が吹き差す方へと飛び始めた。 「ここは森で数少ない日が差す場所です」  暫く飛んだ先で急に木々が開けた場所に出ると、セシルと春歌は静かに着地した。セシルの言うとおり、遮る木々の無いその場所は明るい日の光が差している。 「……暖かい」 「そうでしょう。暗い他の場所とは大違い。それに、美しい花が咲くのは広い森でもここだけです」  セシルは傍らに咲いていた薔薇を手に取ると春歌へ差し出した。 「こんな時期に咲くなんて珍しいですね。すごく綺麗です」 「薔薇だけではありません。ここにはどんな花だって咲くのですよ」  促されるままに春歌が辺りを見渡すと、日が差している範囲に所狭しと花が満ちているのが見えた。竜胆に百合、牡丹、桜草……、少し目を懲らせばその花々が全て季節を無視して咲き誇っている。この世のものとは思えない情景に、春歌は僅かに身をすくめた。 「おや、喜んでもらえると思ったのですが」 「いいえ。すごく綺麗だとは思っています。でも、綺麗すぎて少し怖くて……」  足下に咲く萎れた紫苑を眺めながら、春歌はそう語った。寂しげな彼女の眼差しの理由を聞くことが出来ず、セシルは彼女の手を引きながら歩いた。春歌はもう明るい表情を取り戻して、にこやかに振る舞っている。だがこれ以上この場にいるのは憚られるような気がした。少し離れた切り株に腰掛けると、春歌は小さく息を吐いた。 「気を遣わせてしまってごめんなさい」 「ハルカこそ気にしないでください。次はアナタの喜ぶものを見せてあげたい。好きなものは何ですか?」 「わたしの好きなもの……」 「何でもいいのです。木の実でも、川のせせらぎでも、星の光でも」 「そうですね。………………音楽が好きです」 「音楽ですか。そういえばアナタは先程もワタシの歌を聴いていましたね」 「はい。とても素敵でした! あの、よければもう一度歌ってくれませんか?」 「そこまで音楽に入れ込む狩人さんなんて珍しいですね。いいでしょう。慰めに歌うだけのものでよければ」  セシルは傍らの切り株の上に立ち、大きく息を吸い込んだ。美しい響きが辺りを満たし始める。先程春歌が聴いた歌声は半ば眠りの中で紡がれているものだったが、今は違う。セシルは音を響かせることだけに集中していた。澄んだ響きはただ美しいだけでなく、一種のもの悲しさがあり、冬が迫る晩秋を春歌に思い起こさせた。 「――どうでしたか?」  セシルの呼びかけで春歌は我に返った。自らの胸に沸き起こる気持ちを言葉では説明出来ず、春歌はただその場で拍手し続けた。その様子を見たセシルは安堵したように表情を緩ませた。 「最初に聴いた時よりずっと素敵でした」 「気に入ってくれたなら良かった。人に披露するのは初めてでしたから」 「わたしだけのものにしておくのは勿体ないです! 機会があったらお友達とか、誰かに聴いてもらいましょう」  顔を輝かせている春歌の言葉を聞いて、セシルは苦笑しながら首を振る。 「ワタシの種族はあまり群れたりしない。そんな機会はありませんよ」 「じゃあ今までセシルさんはずっと一人で歌っていたんですか?」 「言ったでしょう。慰めに歌っていると」 「そうなんですね……」  春歌は最初にセシルの歌声を聞いた時のことを思い返した。やはりあの歌声に込められたものは寂しさだったのだ。一人で過ごしている彼が唯一の友としていたのは、彼自身の歌声だった。 「そんな悲しい顔をしないで。これからはずっとアナタがワタシの歌を聴いてくれるのでしょう?」 「えっ……いいんですか?」  信じられない、と言いたげに両手を握りしめた春歌を見て、セシルは深く息を吐いた。 「本当にアナタは疑うことを知らないのですね」 「そんなこと……あるかもしれません。本当は良くないって分かっているんですけど」  春歌は眉を寄せて笑った。その姿は自分自身に呆れているようにもセシルには見えた。どうしようもなく無垢で、それを疎んでも捨てきれないでいる目の前の彼女に報いたいという衝動が唐突にセシルの心を貫いた。 「どうでしょう。アナタが良ければ何でも歌ってあげる。ワタシが知らない歌があるなら教えてください」 「そう言ってくださるだけで嬉しいです。それなら……」  それからセシルと春歌は二人で知っている限りの歌を紡いだ。周囲の村で歌われている収穫を祝う歌、森に伝わる神秘的な歌、都では流行の異国の歌、遠く離れた故郷を思う歌――互いに教え合って声を合わせて音楽を紡いでいく度に、心まで一つになっていくような気がした。気づけば二人は同じ切り株に座り、寄り添って歌い踊っていた。彼等は敢えてそれに気づかないふりをして、相手の鼓動と響きを愛おしんだ。 「ああ楽しかった……! こんなに楽しい気持ちになるのは久しぶりです!」  春歌が声を上げて笑うのを見て、セシルは目を細めた。 「やっと笑ってくれた。アナタが嬉しいとワタシも嬉しいです」 「セシルさんもとても楽しそうにしていましたよ。本当に素敵な歌声……」 「ふふっ、ありがとうございます。誰かと紡ぐ歌がこんなにも楽しいなんて知りませんでした。ハルカが教えてくれた」  二人は顔を見合わせて、一呼吸の間見つめ合った。互いの腕が自然と伸ばされたその時、キュルリと間の抜けた音が響いた。春歌は顔を瞬く間に赤らめて、腕を降ろして腹部を押さえた。セシルが空を見上げると、太陽はちょうど真上に来ていた。 「すみません……」 「気にしないで。ワタシもお腹が空きました。食料がある場所に行きましょう」  セシルは春歌の手を取ると、軽く地面を蹴って飛び上がった。春歌も飛行に慣れてきたようで、セシルの手をしっかりと握りしめ、寄り添うように隣に浮かぶ。数分もしないうちに二人は古い石造りの遺跡に辿り着いた。遺跡はその場所を利用していた人々に最早忘れ去られているらしく、鬱蒼とした木々と蔦に覆われている。辺りも冷たく湿っており、春歌にはやや気味悪く感じられた。 「ここがセシルさんのお家ですか?」 「はい。幾つかある内の一つです」  そう答えながらセシルは太い蔦を腕で退けて遺跡の奥へと進んでいく。春歌は手を引かれるままに怖々と足を進めた。一歩進む度に周囲に足音が反響する。内部に入ると、昼間だというのに目を懲らさなければ辺りの様子を掴めないほど暗くなった。 「ようこそ。少し狭いですが、良いところですよ」  セシルが指を鳴らすと、部屋の隅にあった石灯籠に赤い火が灯る。突如現れた明かりに春歌は目を瞬かせた。 「大丈夫ですか? もう少しすれば目も慣れます。そこにある藁の上に座ってください」 「ありがとうございます。……わぁ!」  明るく照らされた内部は、セシルの暮らしに合わせて整えられていた。御座のなれの果てらしい藁があちこちに敷かれており、灯籠の火の温度もあって外とは違って暖かい。小さな竈や文机、戸棚なども置かれていた。セシルは春歌の目が慣れたのを見計らって、傍らに置いてあった壺から幾つかの木の実と干し肉を取り出した。 「どうぞ。たくさんありますから」 「ありがとうございます。あの、よければセシルさんもこれをどうぞ」  春歌も持っていた荷物の中から、竹の葉で包まれたおにぎりを取りだした。途端にセシルは頭部の耳をぴんと立てた。 「ありがとうございます!」 「そんなに喜んでくださって嬉しいです。お好きなんですか?」 「大好きです! 人里へ行った時にしか食べられないので、とても嬉しい」 「村に行くこともあるんですね」  春歌が木の実を幾つか摘まみながら聞くと、セシルは小さく頷いた。口内の米を飲み込んでからセシルは口を開いた。 「ええ。見つかったら大変なのでこっそりと。自分でも作ろうとしてみたのですが、なかなか上手く出来ません。ああ……この塩加減は絶妙ですね」  セシルが満足げに頷くのを見て、春歌は思わず吹き出した。 「わたしが作ったものなので、よければ今度は一緒に作りましょう」 「いいのですか! とても楽しみです!」  二人は談笑を続けながら、空腹を満たしていた。それから遺跡の内部を見て古代に思いを馳せたり、最も大きな樹を眺めたり、高台へ上ったりと広い森を巡り続けた。  あらゆるものを見る度に春歌は興味深そうに楽しんでいたが、彼女が最も喜んだのは洞窟の中にあるものだった。 「ここは多分アナタが一番好きになってくれるところだと思います」 「そうなんですか? 楽しみです」  洞窟の中は辺りに潜む夜光虫が周囲を照らしており、歩行に困ることは無かった。翡翠のようなその輝きに春歌が感嘆していると、セシルはそっと笑いながら彼女を先へと促す。 「アナタに見せたいのはもう少し先、この洞窟の一番奥です」 「はい……」  星空のように光る地中を歩きながら進むと、少し開けた場所に出る。そこには様々な色に光るキノコが幾つも自生していた。 「綺麗ですね……」 「しーっ、耳をすませてみてください」  セシルが口の前に指を立てる。春歌は口を閉ざし、周囲の音へ耳を傾けた。  ぽたり、ぽたりと水滴がキノコへ落ちる度に、金管楽器を思わせる美しい響きが辺りに広がる。それに気づいた春歌は一気に顔を輝かせた。それを見たセシルは照れたように笑うと、春歌をそっと近くの平らな岩へ座らせ、自らも隣に腰掛けた。  そのまま二人は寄り添って洞窟とキノコが作り出す、自然の歌を聴いていた。未知なる意志によって変わり続けるその旋律は幾ら聞いていても飽きることはなかった。 「セシルさんの言う通りでした。わたし、ここが好きです」  水滴が途切れて無音になった時、春歌は小さな声でセシルに囁いた。それを聞いたセシルは深く頷いた。 「アナタは本当に音楽が好きなのですね」 「大好きです。……音楽家になりたいって夢見てたこともありました」 「素敵です。きっとアナタに似合う」 「どうでしょうね。もうずっと楽器にも触れていないですから」  そう言った春歌は慌てたように首を振り、また地中の音色へと耳を傾けた。その瞳は深い悲しみと憧憬に彩られているようにセシルには思えた。二人は再び演奏が途切れるまで寄り添い合った。体温だけで互いの存在を感じること、それはこの場所に相応しいように二人には思えていた。  洞窟を出た時には既に日が暮れており、月が空に浮かんでいた。もう休みましょう、と呟いたセシルの言葉に、春歌は頷いた。 「そう離れていない場所にワタシが寝床にしている洞窟があります。そちらに行きましょう」 「はい。本当に今日はありがとうございました」 「本番は明日ですよ。ハロウィンの夜にはこの森はもっと美しくなる」  セシルに手を引かれながら、春歌は明日巡り会える幻想獣について考えようとした。だが、あれほど求めて入った筈の存在よりも、今日一日側で過ごした彼の姿ばかりがずっと彼女の心に浮かび続けた。 「さあ、着きました。奥には泉もあるのです。水を汲んできますね」 「は、はいっ!」  セシルの声で春歌は我に返った。その様子にセシルは不思議そうに首を傾げたが、そのまま奥へと進んでいった。傍らに敷かれていた藁の上に座りながら春歌は今日一日のことについてぼんやりと思い返していた。脳裏に浮かぶままに、春歌は二人で聴いた洞窟の旋律を小さく口ずさむ。  戻ってきたセシルはその歌声に暫しの間耳を傾けていた。一度聞いただけなのに洞窟で聴いた調べを彼女は細部まで覚えているようだった。それと同時に音楽が好きだと言っていた姿が思い浮かぶ。セシルの歌声を聴いて無邪気にはしゃいでいた笑顔も。  セシルは春歌の隣に腰掛けると、ずっと抱いていた疑問を口にした。  「ハルカ、アナタはどうして狩人になったのですか?」  「……あまり、楽しい話ではないです」 「構いません。アナタのことを教えてほしいのです」  春歌はセシルが差し出した水を一口飲むと、静かに語り始めた。  故郷では音楽家の家族がいたこと、楽しい暮らしだったこと、自分も両親の後を継いで音楽家になると思っていたこと――それは絵に描いたような幸せな暮らしだった。  だがそれは彼女が十五歳になった時に脆くも崩れ去った。悪質な詐欺師に騙されて一家の生活は一気に貧困へと傾いた。体の弱かった母親は病を拗らせてこの世を去り、他の家族も離散して今も行方は分からないそうだ。生活に迫られた春歌は音楽家の道を諦め、狩人になることを選んだ。その仕事はお世辞にも彼女に向いているとは言いがたかったが、落ち着いた生活であることは事実だった。 「わたしは、もう人に会うのが怖くなっていたんです。だから動物と自然と、それだけに関わって生きていたかった」  それでも家族を失った日のことを毎日夢に見る、と春歌は震える声で語った。同じ夢を見るなら幸せな日を見たいのに、恐ろしい悪夢ばかりが彼女を苛んだ。  限界を迎えそうな年月の中で春歌が聞いたのが幻想獣の話だった。人の魂に寄り添う美しい獣に会いたいと彼女は願った。 「幻想獣はお母さんの魂に寄り添っているのかもしれないし、そうじゃなくても会いたいって思ったんです。……変な話ですよね。誰かと関わるのを怖がっていても、結局わたしは寂しいのかもしれません」 「…………」  セシルは眉間に深く皺を寄せていた。春歌の話した悪辣な詐欺師はセシルが一番見慣れている種類の人間だった。この森に入ってくる人間は幻想獣を狩り、利益を得ようと目論んでいる者達ばかりだ。目の前にいる少女だけがセシルの知る例外だった。  あの醜い人間達の矛先が自分達ではなく彼女に向けられただけの話だ。だが、その事実がどうしようもなく不快で仕方なかった。 「慰めになるかは分からないのですが……、幻想獣は必ずアナタの家族の魂にも寄り添っている。きっと無事に死者の国まで送り届けている筈です。ワタシはそう感じます」 「…………ありがとうございます」  春歌は俯いたまま顔を覆い、細い肩を震わせた。セシルは何も言わず彼女の側に寄り添っていた。セシルが促すままに春歌はセシルに寄りかかり、静かにしゃくり上げていた。  昼間の疲れもあったのか、そのまま春歌は眠りについた。頬に伝っている滴をセシルはそっと拭うと、呪文を囁いた。セシルの指先が光り、魔力が春歌の夢に干渉していく。耐えがたい悪夢は、美しい思い出の情景へと塗り替えられていった。腕の中の寝顔が穏やかに変わったのを見て、セシルは彼女の体を優しく横たわらせた。 「セシルがそこまで入れ込むなんて珍しいね」 「……っ!?」 「慌てないで。ぼくだよ」 「ああ、レイジでしたか」  セシルが警戒を解くのを見て、嶺二は洞窟へと足を踏み込んだ。仲間との関わりが希薄な幻想獣の中でも、嶺二はセシルが言葉を交わす数少ない同胞の一人だった。 「その子がハロウィンの花嫁?」 「ええ。これほど極上の魂はそうそう手に入らないでしょう」 「言ってることと表情が釣り合ってないよ」  セシルが目を見開いたのを見て、嶺二は呆れたように笑う。 「随分ひどい顔しているね。迷ってるでしょ、どうして?」 「ワタシは彼女をハロウィンの花嫁にしたい」 「すればいいじゃない。素質は十分、みんなも大歓迎。もう準備は着々と進んでるよ」 「……でもそれは彼女を騙した人間達と同じだと、そう思ってしまう」  絞り出すようにその言葉は紡がれていた。セシルは祈るように両手を握りしめ、深く頭を垂れた。 「なるほどね。〝本当に〟好きなんだ、その子のこと」 「心から」  嶺二は考え込むように自らの顎に指を当てた。重苦しい沈黙が辺りを包む。セシルは気づかなかったが、嶺二は何かを懐かしむような目で二人を見ていた。 「それなら彼女に選ばせればいい。少しくらいなら時間を稼いであげるよ」 「えっ……でも」 「まあ他のみんなは承知しないだろうね。こんな極上の獲物を目の前で逃がされたら、カンカンになった怪物達に八つ裂きにされちゃうかもしれないよ。それでもやる?」  目線を合わせるように嶺二は屈み込んだが、その顔を見るまでもなく、セシルの答えは決まっていた。 「はい。彼女を裏切らずに済むのなら、ワタシの命などどうでもいい。……ねぇ、レイジは何故ワタシ達を助けるのですか」 「さあね。もしかしたらセシルがフラれた後に横取りする為かもしれないよ」  セシルはその瞬間毛並みを逆立てて春歌の前に立った。尋常では無い様子に嶺二は慌てて首を振る。 「冗談、冗談。まぁ、単なる感傷とでも思っていてよ」  そう言いながら嶺二は洞窟の外へと出ていく。周囲を包んでいた夜空は蒼く白み始めていた。 「花嫁さんに逃げられる幻想獣なんて聞いたことないけどさ」  嶺二の呟きは誰にも聞かれることなく、彼の姿と共に暁へと消えた。  春歌が目を覚ました時、辺りは既に夕暮れに包まれていた。 「大変! いつのまにこんなに寝ちゃったんだろう……」  慌てて飛び起きようとしたその瞬間、春歌は違和感に気づいた。  洞窟で眠っていた筈なのに、気がつけば外に座らされている。繊細な金細工で作られた椅子に春歌は腰掛けており、その隣にも同じ椅子が空席で置かれていた。薄いヴェールが視界を覆い隠しており、思わず視線を下げると眠っている間に着替えさせられたことが分かる。春歌が身につけているのは異国の結婚式で使われるドレスとヴェールだった。だが、それは伝え聞くような白色ではなく周囲の村に伝わる喪服のような黒だった。  血のように赤く染まる空の上をカボチャ姿の妖精が飛び交い、木々が吠えるようにその身を揺らす。異形が集うパーティ会場の只中に春歌はいた。 「これは……何がどうなって……」 「楽しいハロウィンの始まりですよ! アナタへの歓迎も込めているので一際にぎやかです」  セシルは貼り付けたような笑みを浮かべて現れた。漸く現れた安心出来る相手へと、春歌はたまらず駆け寄る。セシルはエスコートするかのようにその両手を優しく取った。 「セシルさん! わたし、いつの間にかこんな……。どうしたら……」 「まだアナタはワタシを頼ってくれるのですね。この光景を見ても尚疑うことを知らない無垢な人……。それでこそ『ハロウィンの花嫁』に相応しい」 「花嫁? ああ違うんです! この服はいつの間にか着ていて……!」 「もうアナタは立派な森の仲間。だったらそれに相応しい衣装を用意しなくてはいけないでしょう?」  似合っていますよ、と笑うセシルは今まで春歌が見たことがない欲に満ちた顔をしていた。 「そんな顔をしないで。まずはアナタの願いを叶えてあげる。だって、アナタはワタシ……『幻想獣』に会いたかったのでしょう?」 「セシルさんが……幻想獣……?」 「オトモダチにはなれたと思っていますよ。だから今度はワタシの番。ハルカ、アナタをハロウィンの花嫁として迎えたいのです。ワタシと魂が尽きるまで共にあると契りを交わしましょう」 「そんな……急に……。それなら、セシルさんは最初からこのつもりで……?」  騙されたのだと春歌は反射的に考えた。周囲は隙間無く異形のものたちが囲み、セシルと春歌を見ている。逃れる隙などある筈なかった。恐怖に駆られる中で、それでも春歌にはある疑問が頭をもたげる。一緒に過ごしていた時も、春歌の身の上話を聞いて励ましてくれた時も、歌声を褒められた時も、セシルの態度には嘘は無いように見えた。寧ろ大仰な言葉で求婚を迫る今のセシルの方がよほど虚構に満ちているように春歌には思えて仕方がなかった。  戸惑いを隠せず、動けないでいる春歌をセシルはそっと抱き締めた。周囲からは囃し立てる異形の吠え声が響く。セシルは春歌の耳元へ唇を寄せると低い声で囁いた。 「この運命から逃れたいと、そう望むなら言って。……今ならまだ間に合う。アナタを抱えて森の外、遙か彼方まで逃がしてあげられる」  思わず息を呑んだ春歌を輝く翡翠の目が映す。それは彼女がかつて見た、相手を慈しむ色をしていた。  途端に会場を轟音が包み込んだ。セシルと春歌、会場の異形達はその原因を探して辺りを見渡す。するともう一度轟音が響いた。既に夜を迎えていた空に大輪の花が幾つも開く。 「花火……?」  周囲の視線が一気に空へと向いた。セシルはその意図を瞬時に理解した。視線を走らせると、異形達の中に紛れ込んだ嶺二が此方へ片目を瞑っていた。 「ハルカ。今のうちです。早く……!」  偽りの表情を投げ捨て、セシルは春歌の肩を掴んだ。春歌は深く息を吐くと、その手に自らの手を重ねた。 「答えは最初から決まっていたのかもしれません」 「え……?」 「わたしはセシルさんが好きです。どんな時も、そして今も、あなたはいつもわたしに誠実であろうとしてくれた。わたしを想ってくれたんです。わたしはそれに応えたい……! もっとセシルさんと一緒にいたいです」  そう言うと春歌はセシルの胸に飛び込んだ。セシルは目を見開いたまま、信じられないと言いたげな顔をしていた。今にも震えそうになる腕を抑えながら、小さな体をそっと抱き寄せる。二人が強く抱き合った瞬間、春歌のドレスが淡く輝き、その色を変えていく。喪服の黒から、未来を思わせる白に変わったドレスは暗い森の中で眩いほどに輝いた。 「本当にいいのですか? アナタはワタシの側にいてくれる?」 「ええ、喜んで……!」 「ありがとう。これからはワタシがアナタの家族になります。ずっと共にありたい」 「はい! ずっと、ずっと一緒にいましょう」  花火が夜空を彩る中で、幻想獣とその花嫁は口付けを交わす。次第に白む東の空は迫り来るハロウィンの終わりと新たな日々の始まりを告げていた。

幻想獣ガチャに大興奮しすぎて書きました。初めてパロディをきちんと書きました。実績解除

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