運命からの小休止、或いは熱帯夜

 素肌に触れたその時、彼の躰は温かった。  それは良く考えれば当然の話で、わたしは彼の体温(猫としての、だけど)に触れてよく理解しているはずだった。彼が人間に戻った後も、文字通り怒涛の勢いで流れる月日の中で触れる機会なんてたくさんあったのに。  でも、セシルさんの体温を意識したのはその時が初めてだった。隣で穏やかな寝息が聞こえる。  季節は冬。サタンの呪いではなく、自分達の意志で世界から逃亡したわたし達は学園の地下で過ごしていた。レコーディングルームで一日中曲を作った後に二人で抱き合って眠るのは、最初の一日からどちらからともなく始まった習慣。わたしはその時初めてセシルさんの体温を意識した。それは想像していたよりずっと暖かくて、少し驚いた。セシルさんが何歳なのかわたしは知らないけれど、多分わたしより年下だ。躰から伝わる熱は、彼がまだ守られるべき子供の歳だとわたしに教えていた。  ふと目線を動かすと、布団が少しずれている。露わになっていた肩まで布団を引き上げて、わたしはそのままセシルさんの腕を擦っていた。  彼が住んでいたのは灼熱の砂漠だという。なのにこんなに温かければきっとずっと暑かったに違いない。彼が愛し、熱を捧げるべき国。そこにいた人々はセシルさんのこの熱を疎んで遠い島国まで追放したのかもしれない、と聞いただけに過ぎない過去の話からそんな感慨まで浮かんでしまってなんだか悲しくなってしまった。 「……どうしました? My Princess」 「へっ!? あっ、あの……起こしてしまってすみません」  プリンセスというにはやや間の抜けた声で返事をしてしまったわたしは、暫し茫然としていた。暗闇の中で深い碧色に光るセシルさんの瞳がわたしを見つめている。まさか勝手な感慨に耽っていたとも言えないし、目線を泳がせていたわたしを、セシルさんは強く抱き締めた。セシルさんはまだ少し寝ぼけているみたいだった。彼の熱がわたしの躰を覆っていく。それはまるでセシルさんの愛がわたしを包んでいくようで、たったそれだけでわたしは浮かされたような心地になった。  国への愛とわたしへの愛。比べるにはただの小市民であるわたしにとってあまりにも壮大過ぎて、セシルさんがわたしに思い入れることに未だに戸惑ってしまう。本当は今すぐにでも国へ帰らないといけないのに。この熱はセシルさんの、そしてわたし自身の我儘の証だった。それでもわたし達はこの愛に自分達の手で終止符を打ちたかった。打たなければ、わたし達はこれから先一秒だって生きていける自信が無かったから。  曲を完成させることが出来れば、この熱はわたしから離れていく。今となってはそれが躰を二つに裂かれることより痛かった。だけど、どれほど祈ったとしても、もう二度と彼の躰がわたしを温めることも、これから大人へと移り変わっていく彼の熱の変化を感じることも許されない。その現実は改めて考えるととても残酷で、わたしはそれに耐えきれずに腕を伸ばした。セシルさんがまるでわたしの気持ちを察したかのように腕を絡める。低い吐息が耳元で聞こえた。  せめて、せめてこの熱を覚えていることが出来たら。叶う筈もない祈りを慈悲深く残酷な神さまに願って、わたし達はただ互いの体温を溶け合わせていた。

個人的にお気に入りの話。

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